情報はどこまでオープン化する?

先日、参院選があった。
民主党躍進。自民党はギリギリだけど、首相は続投。世の中的には織り込み済み的なレベルで、翌日の日経平均は大幅上昇、という感じでした。

さて、インターネット黎明期(あるいは、それ以前のパソコン通信の時代)に、以下のような意見があった。

ネットワークを通じて、情報がどんどんますますオープン化していく。
ありとあらゆる情報が、瞬時に、世界中の人々に伝達されるようになっていく。
また、世界中の全ての人が、ネットワークを通じて、即時的に繋がるようになった。
従って、有権者は、ありとあらゆるマターに対して、リアルタイムに、全ての情報を収集し、最適な判断を下せることが出来るようになっていく。
従って、間接民主制の意義は崩壊し、今後は、世の中は直接民主制に移行していく・・・

云々。

今さら指摘するまでもないが、直接民主制の悪は、マスも感覚的によく理解している。
現代が生み出したマス(=愚かる大衆)は、常にモノゴトを自分に都合のいいようにしか解釈しないし、社会全体の利益よりも、自分の利益を極大化することしか考えられない。
人は本質的にそういうものなのだから、仕方がない。それ自体は善でも悪でもどちらでもなく、ただ純粋に与件である。
(愚かであることは、決して悪ではない。)

高度に複雑化した現代の国民国家は、高度な専門技術を持ったテクノクラートにしか運営し得ない。政治の主導権をマスに委ねてはならず、今後もテクノクラートが国家を運営していくべきである。

云々。

なんか、学生時代にこんなレポートを書いたような気がする。
情報はオープン化してきているし、ネットワークも進化しているけれども、完全競争状態が成立するための条件としては、近代でいうところの「自立した個人」が不可欠な訳で、それが存在しない以上、ムリでした、ということでつね。

まぁ、要するに、政治学専攻としては、当たり前だけど、選挙なんか投票には行きません。支持政党も明確に決まってるし、政治信条も持ってるけど、個人としての最も合理的な行動は、「投票に行かないこと」です。統計学的には一票ぐらいの差なんてほとんど意味ないし、敢えて休日を潰す価値は全くないからね。

で、情報のオープン化について。

世の中は、ますますどんどん情報がオープン化している。
「情報のオープン化」とは何? という議論は置いといて。

どこまで情報はオープン化していくのか?

行き着くところまで行っちゃうのか?

私見だが、
そうなることはないでしょう。たぶん。

なぜならば、
①情報は、常に、ギブ・アンド・テイクで流通していくから。
情報を発信すればするほど、その人に、価値のある情報が集まっていく。情報は一方向では流通しない。常に、双方向である。もし仮に一方向での情報の流通があるとしたら、受信側が送信側に対してお金を払った場合だ。

②本当に価値がある情報(経済的に価値がある情報 = お金になる情報)というのは、常に、P2Pの口づての内緒話的コミュニケーションでしか伝わらないから。
ロジカルには説明できないけど、感覚的には誰もが納得出来るのではないか。
本当に経済的に価値がある情報は、誰にでもオープンにはしない。
例えば、絶対に儲かる株のインサイダー情報、誰もまだ知らない重要な人事情報、公共事業の談合情報、来週の「あるある大事典」で取り上げられるテーマ・・・

何かうまくまとまってないけど、こんな感じで。


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