政治家はレガシーを残すべきか?

レガシーという言葉

日本語に直訳すると、「遺産」という意味です。
要するに、誰かが、その任期中に、後世にまで語り続けられるような、何かをやった・作ったという、個人に紐づいたその業績のことです。

肯定的にも、否定的にも使われます。
従って、この「レガシー」という単語そのものには、正負どちらかの意味合いは本来は含まれていないのですが、概ね、肯定的な意味合いで用いられることが多いものです。

・法律、制度、構想、仕組みを作る
・ハコモノを建てる、交通機関(鉄道や道路)を誘致する
・イベントを開催する、誘致する

など、幾つかのパターンがあります。

 

 

キミもレガシー作ったら?

それで、政治家っていうのは、レガシーを作るべきか、残すべきか?どうなんだろうか?

例えば、私はこの7月臨時会における議会役職人事異動シーズンを乗り越えて、市議会議長としての2年目に突入したのですが、
「議長を2年やるんだから、何かレガシーを作らなきゃねっ!?」
と声を掛けられることがあります。

何人かにそのように言われると、「ほほぅ、そういうもんなのかね?」という気がしててしまうのですが、いやいや、ちょっと待て!ほんとに、そういうもんなのか??

 

 

ペロシ米下院議長の訪台

私個人的には、台湾の「台湾化」を支持しておりますし、共通の価値観を持つ台湾の自由と独立を守るために、中共が台湾に侵攻してきた際は、我が国も集団的自衛権を行使して米国と協力して台湾を防衛するべきと考えます。

 

その上で、今回2022年8月の訪台については、米国の利益にも、台湾の利益にもならず、東アジア地域の緊張を増しただけだったと判断します。

 

米国内の反対を押し切って同志が訪台を強行したことは、下院議長としての任期終了を間近に控えて「レガシー作りだけのためにかなり強引に実行したのだ」という見方があります。

あらゆる物事には様々な側面がありますので、
・台湾の民主主義を指示する姿勢を示した
・軍事力を背景として恫喝を繰り返す、強権的な中共の圧力に屈しない姿勢を示した
ということにももちろん高い価値があり、これを否定するものではありません。

 

しかしながら、自らのレガシー作りが主目的だったのであれば、そのために各ステークホルダが支払わなくてはならない代償はあまりにも大きい、と言わざるを得ません。

 

 

レガシーを作ろうとして作ってはいけない

上記は、ある種の極端な例ですけど、レガシーは、任期が終わるなり、引退するなり、死亡するなりした後、何年か経過してから、「そう言えば、○☓は、あの人のレガシーだった、とも言える」と評価されるくらいがちょうどいいのではないでしょうか。

意図して作ろうとすると、ろくなことにはならないことが多いのではないかと思います。

 

 

鼓腹撃壌

そもそも、

・○☓を作りたい!
・△○を建てたい!

という政治家の公約はご立派なのですが、圧倒的に重要なのは、そのような派手な、レガシーと呼ばれ得る何かよりも、日々のランニングなのです。

日常の平穏な暮らし、これをどれだけ安定して確保するか。

それは、たとえ達成したとしても「誰かのレガシー」と呼ばれることは決してありませんが、最も大切な政治家の仕事です。


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