関西弁の女の子がかわいく見える理由。

関西に行くとつくづく思うのだが、関西弁の女の子(いや、厳密に言うと、女の子の関西弁)はかわいい。美しい。かっこいい。

そこで、理由を考察しました。

①自分なりのスタイルがある。
②そのスタイルが、その人にとって身についている。
③そのスタイルが、世の中的に認知されており、一定の勢力を誇っている。


関西弁をしゃべる女の子は、当たり前だけど関西人だ。
関西人であること、関西弁をしゃべることに誇りをもっている。
自分なりのスタイルを持っており、それを誇りに思っている人は、かっこいいし、美しい。


但し、スタイルというものは、付け焼き刃では身につかない。
長年の修行によって体得するしかない。


これらのスタイルは、極度のマイノリティであってはならない。
例えば、北国のズーズー弁は、北国出身の女の子がどんなにそのスタイルに誇りを持っていたとしても、世の中的に認知されていないので、やはりカッコ悪い。

えーと、別に結論は無いや・・・

女の子の関西弁は(・∀・)イイ! ということで。


金閣寺をつくったヤツはすげーと思う。

友達の結婚パーティのため京都に行ったついでに、いろいろお寺や神社を見てきました。
金閣寺 → 竜安寺 → 仁和寺 → 妙心寺 → 銀閣寺 → 清水寺

この辺のお寺に行ったのは、それこそ中学校の修学旅行以来。
当時、妙にスノッバリーな思考に犯されていた中学生の私は、
「金閣寺って成金趣味的で嫌な感じ。銀閣寺は侘び寂びな感じで渋い。銀閣寺の方がいい。」

侘び寂びというのはそもそも茶道用語であり、室町時代よりもっとずっと後にできた概念じゃん、などというツッコミはおいといて、

今は素直に思える。
「金閣寺を作ったヤツはすげー!」

これほどのモノをつくるのに、どれほどお金が必要なことか。
数十人規模の常勤メンテナンス要員の人件費も含めて、ランニングコストも膨大だ。

今の自分にはこれだけのものはつくれないし、何かやらないと、今のままでは多分一生つくれない。

自分には(少なくとも今の時点では)出来ないものをやっちゃった足利義満氏は、純粋にすごいし、(・∀・)カコイーと思える。

この手の大規模な「何かをつくること」は、強烈に欲望を抱く事が大前提というか出発点なのだと思う。
強烈な欲望の存在なくしては、歴史に残るような大規模なモノゴトは為し得ない。
僕自身は、今までは、なるべく自分の中の欲望の火を消すように、自分なりの方法論で精神修行をし続けてきたのだが、ちょっと考え方を改めないといけないかもしれない。

金閣寺とか銀閣寺のように、古典として長期間に渡って人々の歴史的評価に曝されてきた名勝史跡、小説、絵画、音楽の類は、自分自身の世界観、人生観の変化を推し量るためのベンチマーク的な使い方が出来るので、便利だ。