「絶滅のおそれがある種」は、救うべきか?

パンダもトキも同じだけど、「絶滅の恐れがある種」は、絶滅するべくして絶滅するのであり、人為的に、膨大な予算を投じて保護して延命する必要があるのか? 資源の再配分の仕方として間違っているのではないか?

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コンプレックス産業のクチコミ評価サイト運営事業企画

既に自分の中でも、仲間うちでも何度もブレストし続けてきたテーマなのだが、本日、ちょっとした集まりでもまたこのテーマが出たので、改めて今時点の自分の考え方を整理してみる。

コンプレックス産業(美容整形手術、近視矯正手術、包茎手術、脱毛、エステ、カツラ、などなど)のクチコミ評価サイト運営事業をやってみるとする。

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Googleの未来を考えるとワクワクする。

価 格|.com的には、今後日本で展開されるFroogleとどう闘っていくか、ないしは、どう相互補完関係を築いていくか、ないしは・・・及び、「サーチ」の進化とそれに伴う一連のテクノロジ・イノベーションにどう対処していくか、というのが目下の大きな課題なのだが。

ただ素朴に、純粋に、個人的には、Googleがこれからどうなっていくのか、どうやって世の中を便利にしていくのかをあれこれと想像すると、ワクワクして仕方がない。

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大規模なフランチャイズチェーンを構築するために必要なもの。

ゲオの創業社長遠藤氏が不慮の事故で急逝されました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

そこで考えたのですが、急成長、急拡大して大きくなったフランチャイズチェーンの会社は、圧倒的にカリスマ性があって、多少強引とも言えるようなリーダーシップを発揮して組織を率いたオーナーカンパニーが多い。というよりも、ほとんどそうなのではないか?
例えば、CCC、ワタミ、すかいらーく兄弟、故藤田田さんのハンバーガー屋。
あ、コンビニチェーンは別か、そう言えば。
何か例外もぼろぼろ出てきそうだけど、取り敢えず置いといて・・・理由を考察してみますた。

フランチャイズチェーン拡大成長のプロセスは、大きく二つに分けられる。

①ある程度軌道に乗るまでの立ち上げフェーズ
②それ以降の拡大フェーズ

①の時期は、社長から末端の社員まで、場合によっては、社長の奥さんまで総動員してフル回転で働かなくてはならない。社長は寝るヒマなんかないね。睡眠時間平均3時間。でもアノ頃はまったく辛くありませんでした、な時期。
どうやれば成功するか、みたいな一般原則は無い。結果論でしか語り得ない。
この時期を上手く過ごして、利益が出るような構造を作り上げられたフランチャイズチェーンが、②フェーズに移行することが出来る。

②この時期に入ると、キャッシュフロー的には余裕が出てくる。
フランチャイズチェーンとしての規模的には、業界、業態によっても違ってくるだろうが、10~20店舗規模くらいか。
既存の資産をテコに、レバレッジを利かせて借金も出来る。
ある程度、知名度も人気も出てきたし、イケイケ、ノリノリでフランチャイズチェーンを拡大だ!!というフェーズ。

で、重要なのはこの時期。
この時期になると、もはや、成功のための方法論は、各社各様ながらも、①フェーズにて確立している。重要なのは、その方法論を、いかに地道に真面目にコツコツとこなしていくか。そこで、強固な組織、オペレーションが必要となる。

「何をやれば良いのかは分かっている。でも、それを実行するのが難しい」

強固な組織、鉄壁のオペレーションを構築し、維持し続けていくためには、圧倒的な経営者のカリスマ性、強引なリーダーシップ、オーナシップが必要なのではないか。
あるいは、必要というよりも、あった方が便利というか、近道、と言えるのではないか。
(少なくとも僕には無理。ヨゴレ仕事はしたくないし。あまり、俺は絶対に正しいみたいな発想も、世の中全ての人によく思われたい、みたいな欲求もないし。)

ここまで来て、上記考察の重大な欠陥に気がつきました・・・
ゲオって、フランチャイズチェーンじゃなくて、直営型じゃん、
そう言えば・・・_| ̄|○


関西弁の女の子がかわいく見える理由。

関西に行くとつくづく思うのだが、関西弁の女の子(いや、厳密に言うと、女の子の関西弁)はかわいい。美しい。かっこいい。

そこで、理由を考察しました。

①自分なりのスタイルがある。
②そのスタイルが、その人にとって身についている。
③そのスタイルが、世の中的に認知されており、一定の勢力を誇っている。


関西弁をしゃべる女の子は、当たり前だけど関西人だ。
関西人であること、関西弁をしゃべることに誇りをもっている。
自分なりのスタイルを持っており、それを誇りに思っている人は、かっこいいし、美しい。


但し、スタイルというものは、付け焼き刃では身につかない。
長年の修行によって体得するしかない。


これらのスタイルは、極度のマイノリティであってはならない。
例えば、北国のズーズー弁は、北国出身の女の子がどんなにそのスタイルに誇りを持っていたとしても、世の中的に認知されていないので、やはりカッコ悪い。

えーと、別に結論は無いや・・・

女の子の関西弁は(・∀・)イイ! ということで。


金閣寺をつくったヤツはすげーと思う。

友達の結婚パーティのため京都に行ったついでに、いろいろお寺や神社を見てきました。
金閣寺 → 竜安寺 → 仁和寺 → 妙心寺 → 銀閣寺 → 清水寺

この辺のお寺に行ったのは、それこそ中学校の修学旅行以来。
当時、妙にスノッバリーな思考に犯されていた中学生の私は、
「金閣寺って成金趣味的で嫌な感じ。銀閣寺は侘び寂びな感じで渋い。銀閣寺の方がいい。」

侘び寂びというのはそもそも茶道用語であり、室町時代よりもっとずっと後にできた概念じゃん、などというツッコミはおいといて、

今は素直に思える。
「金閣寺を作ったヤツはすげー!」

これほどのモノをつくるのに、どれほどお金が必要なことか。
数十人規模の常勤メンテナンス要員の人件費も含めて、ランニングコストも膨大だ。

今の自分にはこれだけのものはつくれないし、何かやらないと、今のままでは多分一生つくれない。

自分には(少なくとも今の時点では)出来ないものをやっちゃった足利義満氏は、純粋にすごいし、(・∀・)カコイーと思える。

この手の大規模な「何かをつくること」は、強烈に欲望を抱く事が大前提というか出発点なのだと思う。
強烈な欲望の存在なくしては、歴史に残るような大規模なモノゴトは為し得ない。
僕自身は、今までは、なるべく自分の中の欲望の火を消すように、自分なりの方法論で精神修行をし続けてきたのだが、ちょっと考え方を改めないといけないかもしれない。

金閣寺とか銀閣寺のように、古典として長期間に渡って人々の歴史的評価に曝されてきた名勝史跡、小説、絵画、音楽の類は、自分自身の世界観、人生観の変化を推し量るためのベンチマーク的な使い方が出来るので、便利だ。


ユビキタス・コンピューティング化を阻むもの。

ここんとこモバイルの研究ということで、自らに対して「朝までにフル充電したez端末のバッテリを、その日のうちに使い切ること」をノルマとして課しており、ひたすらモバイルコンテンツをいじりまくっている。

コンテンツの話は別途まとめるとして、今、考えているのは、現在時点で、社会がユビキタっていくのを阻んでいる最大の要素は何だろうか、というテーマだ。

それは、インタフェースの制約だと思う。

以下では、取り敢えずケータイに限定して、インタフェースの制約について論じていきたいと思う。
ケータイ上のこれらの問題が解決されれば、いわゆる情報家電の類など、他の機器上でのインタフェースの問題も同時に解決するはずだ。たぶん。

【入力系インタフェースの制約】
人が何らかの入力をするのは、やはり圧倒的に手を使うのが、便利で早い。足とか舌でテキスト情報を入力するなんて考えられん。PCのQWERキーボードも決してベストのデバイスではないのだが、現状では、これ以上のものはない、多分。それに比べると、ケータイの入力インタフェースは、使いにくすぎる。端末が進化するごとに使いやすくなってきてはいるが、それでもまだまだダメダメだ。

最終的には、意思したものがそのままリアルタイムに入力されるのがベストだ。

個人的には、7年前にバイクで事故して以来、大腿骨転子部にチタン棒が入っているので、外科的手術を施して脳内に何かを埋め込むことに対しては全く抵抗感はない。とは言え、現状のケータイサイズのものを頭の中に埋め込むのは頭が重くなりそうなので、超小型の何らかのチップを神経シナプスに埋め込んで、Bluetoothで手持ちのケータイに送信するのが、現実的だろう。また、他方では、往々にして、人は同時にパラレルに複数の思考をしているものだ。むちゃくちゃ真面目な仕事の話を考えながら、脳の別の部分では、ぼんやりといやらしいことを考えていたりもする。従って、意思した内容がそのまま信号として外部に送信されてしまうのは問題がありすぎる。一旦、本人が外部に送信する内容を確認する手続きが必要だ。ユーザは、意思した内容がリアルタイムにケータイディスプレイに表示されるのを目視で確認し、そのまま送信ボタンを押す、と。

【出力系インタフェースの制約】
人は、五感の中で、圧倒的に視覚に頼っている。

従って、PCの出力デバイスは、当然ながらディスプレイのみだ。ケータイも、ケータイ上の画面のみ。若干、音(聴覚)とバイブ(触覚)もあるが、あくまでも視覚のサポートとしての役割を果たしている程度に過ぎない。

人の五感のうち、視覚以外の感覚が視覚を凌駕していくことは、当面は考えにくいので、やはり、ケータイのこの小さくて見にくい画面を、どうやって大きく、見やすくしていくか、ということを考えなくてはならない。

実際、ケータイの画面はどんどん明るく、細かく、綺麗になってきてはいるが、物理的な大きさには制限があることは言うまでもない。

そこで、発想の転換が必要だ。
「部屋は狭いし、シアターセットを買うほどのお金もないけど、家で大画面で映像を楽しみたい!」という人のために、ヘッドマウント・ディスプレイが発展した。これの応用だ。いわゆる、ウェアラブル・コンピュータってやつだ。ドラゴンボールのスカウターもこの一種だ。

最終的には、やはり人の頭部に何らかのチップを埋め込み、網膜なり脳内なりに直接映像を配信することになると思う。

結論としては、ケータイ(ないし、ユビキタス・コンピューティングの入出力インタフェースを提供するデバイスは、人体と融合していかざる得ない。