【蕨市】戸田市との広域行政、連携の推進(案)

掲題の件、以下、考えを述べます。

街頭演説で既に何度も同じ内容を主張しておりますし、明日の出陣式の決意表明にも盛り込む予定です。
錦町は、蕨市の中でも最も西に位置しており、戸田市と隣接している。
京浜東北線の蕨駅ではなく、埼京線の戸田駅、もしくは北戸田駅を使う方が多い。
戸田に買い物に行ったり、戸田の公共施設を使う方も多いだろうし、その逆も同様。
生活圏が重なっており、相互連携を深めていくことによって、お互いにメリットが生まれてくる。
①図書館
蕨市の図書館と、戸田市の図書館の両方に同時に人気の本の予約が出来たら便利になる。
②コミュニティバス
戸田の公共施設を使っている方は、コミュニティバスのぷらっとわらびが戸田市まで乗り入れ、埼京線の戸田駅、北戸田駅や戸田市立図書館、戸田スポーツセンターに乗り入れていたら便利になる。
戸田マラソンin彩湖(ハーフマラソン)への何らかの形での参画
個人的に進めたいのはこれ。
あくまでも戸田市主催のものだが、隣接する蕨市として、イベント運営に協力できることはたくさんあるはず。レース後の風呂として、やまとの湯や市内の銭湯を提供したり、賞品としてわらびりんごの苗木を提供したり、運営スタッフとして人工を提供したり。
私 保谷武(ほやたけし) 36歳は、戸田市との広域行政、連携を進めてまいります。
【討議資料】

保谷武(ほやたけし)の職歴について

掲題の件、ざっと書きます。

1997年 大学卒業と同時に、ニチメン(株)(現:双日)入社
商社を就職先に選んだのは、他の多くの商社マンと同じように単純で、「海外で仕事したかったから」、「ビッグな商いをしたかったから」。
ニチメンは、先輩の感じがよくて、一番最初に内定をくれたので、そのまますんなり決めてしまいました。
(今思えば、もっといろいろな会社回っておけば良かった。大学生の私は、社会の仕組みをまったく分かっていなかったw)

当時は、商社冬の時代で、ニチメンの業績はボロボロ。
同期たる新卒は48人採用されたものの、部門別収益管理を行っているために現場の営業部門の配属が少なく、私は間接部門の情報システム部に配属された。

私の入社以前の情報システム部といえば、経理システム、人事システムなど、いわゆる基幹系システムの開発、保守を行うような地味な仕事がメインだった。私が入社したタイミングは、ちょうど、社員一人一台PCが配られ、業績は悪いくせに予算はたくさんあり、海外店にもイントラネットを伸ばし、さあ、ネットは広大だわ、ネットを使ってどうやって商いを拡大していこうか、という、ある意味チャンスがあった。
しかしながら、海外で、ビッグな仕事!ということに目が行っていた私は、正直、腐っていた。

周りを見回してみると、ちょうど第一次ネットバブル、ITバブルと言われていた時代で、ネットベンチャーが勃興し、赤字でも成長さえしてれば会社をIPOさせられる、「さあ、閉塞した大企業を飛び出して、ベンチャーに飛び込み、IPOさせてミリオネアになろう!」という神話が喧伝されていた時代だった。





1999年 転職して(株)サイバーエージェント入社
丸二年でニチメンを退社し、当時、創業ちょうど一年で、社員数15人だった同社に入社。
当時たくさん興ったIT、ネットベンチャーの中には、ゴミクズのように消えていった会社も多いけど、サイバー社はかなり大きく成長し、いい会社になった。たくさんのことを学んだし、この会社を選んだのは、自分としてはラッキーだったと思う。

当時は、ネット広告黎明期で、バナー広告を1クリック幾らで売り歩いていた時代。
サイバーエージェントがバリバリの営業会社だった時代(アセットとして営業力しかなかった)。
サイバーエージェントの創業者のお二人は、インテリジェンスのご出身。インテリの創業者はリクルートコスモスのご出身。つまり、サイバー社は、リクルートDNAを受け継ぐ会社で、営業スタイルはリクルートそのもの。士気が高くそれなりに優秀な若者を集めて、インセンティブで競わせつつドブ板営業をさせる、というスタイル。
社員は若く、当時の平均年齢が24歳くらいで、全員独身だったので
、毎日のように会社に泊まり込んで仕事していた。(効率は悪かったけど)トイレの洗面台には、社員全員分の歯磨きセットが左右にずらっと並んでいた。

私もこういった営業をやっていたのだが、正直、成績はあまりよくなかった。
リクルートスタイルの営業は自分に合ってなかった。
月末にクライアントにfax攻撃したり、ノルマに足りないんですぅ~と泣き落としで売上を押し込ませてもらったり、といことが、気恥ずかしくて出来なかった。これは、私の弱さに依るものである。
以降、一貫して私は、新規事業を作るに当たっては、「営業しなくて済む商い」であることを前提条件としている。
尚、この会社は、私が在籍していたときにIPOしたが、直後にネットバブルが崩壊したので、個人利得はない。





1999年 子会社として(株)ネットプライスを創業して出向、後に転籍
ECをやるために、インテリとE-storeとJ/Vで作った会社。
同社の現在のモデルは「ギャザリング、共同購入」モデルという特殊な売り方による、自社ECである。創業当初は、自社ECモデルでスタートして、後に打倒楽天を旗印に掲げたショッピングモールモデルに転向した。
私は、モールのシステムの要件定義をやったり、営業マン(USENの営業マンが代理店として販売うしていた)向けの説明をやったり、コンタクトセンタを作ったりといった仕事をしていた。

「いろいろあって」退社。
差し障りもあるのであまり詳しく書かないが、一般論として言うと、小規模な組織の場合、トップと考え方ややり方が異なったりすると、行き場所がなくなるので、辞めなくてはならなくなる。大企業ならば「ほとぼりが冷めるまで地方の国内支店で謹慎しよう」みたいな、冷却期間のキャリアパスが存在するが、小規模組織だとそんなモノはない。
尚、この会社は後にIPOしたが、私が退社した後だし、ストックオプションは当然退社時に放棄しているので、個人利得はない。





2001年 転職して(株)デジタルガレージ入社
ネットビジネスのコンサルティング+受託制作・開発を商う会社。
私は、コンサル+営業という仕事をやった。
案件は、数人~十数人規模のものが多く、トップ営業で取ってきたものを現場のチームで回していく、というスタイルだった。この点、開拓営業が苦手な私には合っていた。
当時平均年齢が二十代半ばだったネットベンチャー業界において、平均年齢が高く、「大人のベンチャー」といった趣きがあった点が魅力だった。
それぞれの分野のエキスパートが集まっており、仕事はきっちりこなしつつも、社内では仲良く、おおらかな社風も合っていた。この会社が代々木公園で開く花見には、今でも当時の仲間と集まっ


錦町土地区画整理事業の財源問題

錦町土地区画整理事業の進捗がはかばかしくなく、今後さらに二十年以上かかってしまいそうな理由について、先のエントリにおいて、財源問題だと述べました。

この点について、追記します。
土地区画整理事業における費用は、
・役所の担当者の人件コスト
・契約に関わる法務コスト
・道路、電柱電線、水道などの公共インフラ引き直しなどの公共部分に関わる土木コスト
・土地の交換(換地)、家屋の建て直し、曳き家に伴う私的部分に関わる土木コスト
などに大別れると思います。
これらは、費用ではありますが、投資としての側面ももつものです。
たとえば、ぐちゃぐちゃに入り組んだ道路の奥の、複雑な多方形の土地から、キレイに整地された土地に換地したら、保有する土地の資本的価値は高まります。
借り入れを起こしてマンションを建て、賃貸収益を得ることもいいでしょうし、分筆して戸建て建売住宅を建て、分譲してもいいでしょう。
不動産投資がなされることによって土地が高度利用されれば、蕨市に取っては固定資産税の税収増に繋がります。
人口が増加すれば、蕨市にとって住民税の税収増に繋がります。
これらの税収増は、土地区画整理事業の特別会計における収入増としてはカウントされませんが、広義にはこの事業による投資収益とみなせます。
具体的に、区画整理に関わる費用に対して、どのくらい税収増に結びついているのかを数字で計算してみたいと思います。結果次第では、もっとこの区画整理事業に予算を投入した方がいい、という結論になるかもしれません。