東日本大震災の被災地の定点観測シリーズ。
2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
そして今回が、2017年5月(震災から6年後)
それぞれの写真を並べて記す。
女川市中心部を抜けて、沿岸を北上する。
雄勝
雄勝は、硯の生産で有名な街。全国の硯の9割をここで作っていた。
平成の大合併の時に石巻市に併合された。
2012年4月
雄勝硯伝統産業会館
笑顔咲く旅伊達な旅 : 雄勝硯伝統産業会館(現在休業中)
この時はまだガレキまみれだった。
2階部分の屋根には、トラックのコンテナが載っている。
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2014年4月
既に建物は撤去されていて、更地になり、消波ブロックを造る作業場となっていた。
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2017年5月
同じ場所。
河川の流れを改修する工事をやっていて、雄勝硯伝統産業会館の跡地は、新しい河川になっていた。
河川の内側の法面のコンクリがぼこぼこに破壊されたので、補修するよりも川そのものを敷き直した方が低コストだから、ということなのかな?
2014年4月の時点で、「街そのものがそっくりなくなり、住んでいた人が街を放棄していなくなってしまったようだ」という印象を受けたが、それは変わらない。
ここに新たな街を作り直そう、という雰囲気は感じられない。
旧 石巻市立大川小学校
2014年4月
逃げ遅れた生徒ほとんどが津波に呑み込まれてしまった小学校。
2階建ての校舎は壊れたまま放置保存されていた。
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2017年5月
校舎は、立入禁止のロープを張ったまま放置保存されている。
毎日新聞 2016/3/16 : 大川小を震災遺構に 石巻市長、校舎保存発表
震災遺構として残すことは決まったようだが、大勢が亡くなった場所なので、様々な思い・考えがあり、具体的にどのような形で残していくかはまだ決まっていないようだ。
イニシャルの保存整備費用は、6億70百万
年間ランニング費用は、23百万
かかるとのこと。
観光バスやクルマで見学に来る人の姿は引っ切りなしだった。
亡くなった生徒のお父さんが語り部となって震災を解説するツアー一行がいて、紛れ込んで話を伺う。
「この道から山に登れば、かんたんに津波から逃れられたのに」
と語る。
大川小学校の悲劇については、学校の先生の間での派閥争いが原因で、山に逃げよう派と校舎に留まろう派に分裂してしまい、子供達がこれに巻き込まれた、というような解説を読んだことがあるが、今ひとつ真相はよく分からない。
この語り部のお父さん曰く、市の調査はいいかげんだし、真実を隠蔽して責任を逃れようとする態度が見え見えだ、とのことだ。
これも一つの見方に過ぎないので、その通りかどうかは分からない。
裁判はまだ続いている。
気仙沼線
2012年4月
リアス式海岸に沿って走る鉄道路線で、トンネルや橋が多い。盛土部分に線路を敷いた箇所も多い。
この時期には、壊れたままの橋やらがそこかしこに放置されていた。
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2014年7月(会派視察で訪問)
これは気仙沼駅。
2012年から、鉄道として復旧することを断念し、BRT化している。
鉄道軌道の一部は、BRT専用道路として再利用されている。
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2017年5月
南三陸町の、志津川駅。
BRTなので、要するにバス停なんだけど、常勤の切符窓口スタッフがいた。
この駅の対面に、新しい南三陸さんさん商店街がサービスインしたばかりで、広大な駐車場はほとんど満車で、すごく賑わっていた。
2017年5月
盛土の上の旧鉄道軌道と、鉄錆を吹いて放置されたレールと枕木。