東日本大震災の被災地の定点観測シリーズということで、先週、バイクで被災地をぐるっと回ってきた。
2012年4月に行った時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石
福島第一の近くに行ってみました。(この日だけ2012年7月)
2014年4月に行った時(震災から3年後)
東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く
そして今回はその3年後ということで、震災から数えると6年後。
5年は長い。
しかし、復興の諸々はまだ道半ばと言った感じだった。
以下、定点観測なので、5年前と3年前と、写真を並べて比較できるようにする。
仙台市の荒浜へ
東北道をかっ飛ばし、仙台南ICから仙台南道路へ。
仙台南道路の南側は、ガキの頃遊んだ名取川。北側は昔は田んぼらだらけだったけど、今は新興住宅街として家だらけ。
旧仙台市立荒浜小学校へ。
海岸から貞山堀(伊達政宗公が造った運河)を挟んで、500mほどのところにある。
2012年4月
校舎は閉鎖され、コンクリ敷きの校庭(?)には、津波で流され、回収されたバイクが横倒しに仮置きされていた。
↓
2014年4月
校舎は相変わらず閉鎖されたままだった。
この時点では、学校は、別の地域の小学校の校舎を間借りしていた。
↓
2017年5月
すっかりきれいに整備され、震災遺構として一般公開されている。
観光バスがひっきりなしに出入りしていた。
仙台市 webサイト : 震災遺構 仙台市立荒浜小学校
この後見ていくように、他の地域では、「震災遺構として残していこう」と決めた建物についても、復興に忙しくて遺構整備にまでは予算も手も回らず、結果として放置状態になっていた。
仙台市はデカイ街だし、津波の被害に遭ったのは市域のごく一部に過ぎないので、余裕があるのだろう。
尚、学校は、2016年3月に閉校されている。
この付近は、すっかり何もない。
結局、この荒浜地域に住んでいた人たちは、ここに戻って来なかったようだ。コミュニティは崩壊し、子供達もあちこちに散ってしまったのだろう。
まさに、街が津波に飲み込まれてしまったわけだ。
以下は全て2017年5月
校舎の東側つまり海に面した部分。
2階の手すりまでがバッキバキ。
建物の中に入ってみる。
1階。
震災当時は、クルマが中に飛び込んできたらしい。
校舎が震災当時の姿で保存されている。
このように保存するのももちろん手間もお金もかかる。
来場者のために、新たにエレベーターまでが設置されていた。
ここは2階。
2階の床から3-40cmのところまで津波が到達していた。
子供達が模型を作って、「ここでよくボール遊びをした」というように思い出を旗に書いて記録していく。
これは良い試みだ。
この地域を南北に縦断する幹線である県道10号の横に、嵩上げ道路を新たに造っていた。
堤防としての役割を期待しつつ、避難道路として使うためにこのようにしているのかと思う。
近くにあった津波避難ビル。
1階は水防倉庫になっている。
仙台市 webサイト : 岡田津波避難ビルが完成しました。
400人が避難可能で、トイレ、発電機、毛布、水・食糧が備蓄されている。完璧ですな。費用はざっとググったけど分からず。
オーバースペックのような気もするが、その点はちょっと判断つきかねる。
(奥松島編へ続く)