東日本大震災の被災地の定点観測シリーズ。
2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その2 野蒜
そして今回が、2017年5月(震災から6年後)
それぞれの写真を並べて記す。
野蒜へ。
仙石線 旧野蒜駅
2012年4月
1階はガラスが割れたまま。放置されていた。
2階は無事だったようだ。
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2014年4月
足場を設ける工事をやっていた。取り壊すのかと思っていたが、この時点で、既に震災遺構として残すことが決まっていたようだ。
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2017年5月
1階は休憩施設とファミマ。
2階は震災の資料室になっている。
ちょうど17時の閉館時刻だったので、資料室には入れず。がくっ。
駐車場も舗装整備中で、観光バスが何十台かやってきたも耐えられるようになっていた。
尚、後述のように、仙石線は、山の上の方に新たな線路を敷き直し、新しい野蒜駅も既にサービスインしている。
この建物は、鉄道駅としては利用されていない。
旧 野蒜駅構内
2012年4月
駅構内は、線路が土砂で埋もれ、架線は切れ垂れ下がったまま放置されていた。
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2014年4月
架線など移動できるものは撤去されていた。
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2017年5月
震災遺構としてプラットホームだけが撤去されずに残してある。
まあしかし、ホームはあくまでもホームですな。
旧野蒜駅前の様子
2012年4月
津波の引波で持って行かれた街灯が、くにゅっと曲がったままだった。
ピカピカの電柱と信号機が印象的。
やはり復興のためには、電気と交通インフラは必須であり、優先順位が高い。
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2014年4月
橋の欄干はベコベコのままだった。
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2017年5月
橋の欄干は作り直されていた。
優先順位をつけて復興・復旧が進んでいることが分かる。
かんぽの宿 奥松島
2014年4月時点では、廃墟として放置されていた。
震災遺構として残そうという議論もあったようだが、今回訪問時には解体されていた。
震災遺構として残すにしても、耐震診断・津波影響調査(鉄やコンクリへの影響を調べる)等を行った上で、来訪者が安全に見学できるように整備し直さなくてはならないわけで、けっこうなお金がかかる。
どのような経緯があったのか分からないが、震災遺構として残すことを諦めたのだろう。
奥松島の海岸沿い
2012年4月
ガレキ仮置き場は山積みになっていた。
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2014年4月
上述のかんぽの宿奥松島の玄関部分より、海岸方面を望む。
ダンプが引切りなしに行き来していた。
今思えば、盛土をしていたのかと思う。
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2017年5月
複数の杭打ち機が稼働していた。
おそらく、これから堤防を造るのだと思う。
それにしても、大きなビルの基礎工事に使うような、こんな背の高い杭打ちマシンで杭を打つんですな。
奥松島の月浜
漁業と観光業の小さな集落。
海辺の民宿街は壊滅した。
2014年4月
大きな駐車場に仮設住宅が出来ていた。
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2017年5月
仮設住宅は既に撤去されていた。
この民宿街に住んでいた人たちは、どこに行ったのかな?
月浜の海辺の民宿街
2014年4月
盛土が終わっていた。
この時点では、建物敷地部分だけに盛土をし、道路部分には盛土はなされていなかった。
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2017年5月
その後、道路部分にも盛土を行ったようだ。
道路は綺麗に舗装され、建物敷地部分も砂利が敷かれている。排水設備も整備されている。
かつてここは民宿街があったのだが、今は一軒も建っていない。
結局家を建て直して人が住むわけではないのだったら、わざわざ盛土をする必要はなかったのではないのかな?
よく分からないけど。
左側の白い倉庫群は、漁協の倉庫。
新野蒜駅と、丘の上のニュータウン
以下の写真は全て2017年5月現在。
仙石線は、2015年5月に、津波をかぶった区間が高台に移転して、営業再開している。
野蒜駅も、高台に新しいピカピカの駅が建てられている。
駅前のロータリー。
背後を見れば分かるように、山を切り崩して、新しいニュータウンを造成したのだ。
野蒜ケ丘という、いかにも郊外ニュータウン風の名前がつけられている。
地図を見れば分かるように、山が丸ごとくり抜かれて、新しい街が造成されている。こりゃカネかかりますわ。
あちこちで家を新築中の槌音が響いていた。
この日は、石巻市内に泊まり、地の魚を食べる。
ほやの天ぷら。
意外と(゚д゚)ウマー