2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田

東日本大震災の被災地の定点観測シリーズ。

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田

そして今回が、2017年5月(震災から6年後)

それぞれの写真を並べて記す。


さらに三陸海岸沿いを北上して、気仙沼へ。

 

街道は埃っぽい

相変わらずダンプや大型トラックが走り回り、沿道にはプレハブの工事現場事務所が立ち並んでいる。

道路の路肩、交差点の中央部は砂塵まみれで、全体的に埃っぽい。

意外なのがトンネルの中の埃っぽさで、構造や風向きによっては土埃が舞い込んできて、外に排出されていかないので溜まっていくのだろう。もうもうとした土埃で対向車のヘッドライトが霞んで見えるようなトンネルもあった。
バイク乗りにはたまらん。

 

気仙沼市中心部

2012年4月

DSCN0329

市中心部のあちこちに、津波にやられて崩れ落ちたままの建物が残っていた。

2014年4月

気仙沼 市街地には取り壊されずに放置された建物もちらほら

倒壊建物の多くは撤去が終わっていたが、まだ放置されたままの建物もそこかしこに見かけた。

2017年5月

201705_気仙沼市中心部

中心部はほとんど更地になり、更にその上に盛土をする工事が進められていた。
街中が埃っぽい。

元通りになるには、まだまだ時間がかかりそう。

 

気仙沼市中心部の男山本店

2012年4月

DSCN0338

市内中心部にある、男山酒造本店。

漁船が衝突して、1階、2階部分が倒壊し、3階部分だけがこのように残ったとのことだ。

2014年4月

気仙沼 男山酒造

国登録有形文化財とのことで、仮保存されていた。

2017年5月

201705_気仙沼市内 男山本店跡地

建物は消えていた。
この地域全体を盛土するためだろうか?一時的にどこかに曳き家をして移動したのかな?

 

気仙沼復興商店街南町紫市場跡地

2017年5月

201705_気仙沼復興商店街南町紫市場跡地

気仙沼復興商店街 : ご挨拶

この地域の区画整理のために、ちょうどこの5月頭に閉鎖したらしい。

プレハブの壁面に描かれているのは、ホヤボーヤ。かわいい!

201705_気仙沼復興商店街南町紫市場跡地

河北新報 2017/2/2 : <仮設商店街>気仙沼「退去後未定」3分の1

区画整理のために閉鎖することとなったものの、2月時点では移転先が見つかっていない店舗が多かったらしい。

 

201705_気仙沼市内の復興住宅

復興住宅。

そして、この写真の南側のコンクリ打ちっぱなしの建物が、仮設商店街の受け皿となる、共同店舗のビル。

河北新報 2016/10/22:<災害公営住宅>にぎわい再生 店舗共同で完成

10昨年10月には完成していたらしいけど(?)、訪れたこの日は、平日昼間なのに全ての店舗は閉まっていて、内装工事中っぽいテナントもあった。なんだかよく分からない。

 

 

陸前高田の「奇跡の一本松」

2014年4月

陸前高田 奇跡の一本松 最上部の避雷針がシュールだ

枯死した松を、防腐処理してモニュメントとして残しているもの。

訪問したこの年の前年2013年夏に完成している。

他の街のエントリで見たように、まだ復旧フェーズにある中で、いち早く1億50百万円ものお金を掛けて震災遺構・モニュメント作りに取り込んだ陸前高田市は、特殊なパターン。他の街では、復旧フェーズが終わっておらず、余裕がないために、震災遺構として残していく予定の建物についても、放置したままであることが多い。

しかしながら、このモニュメントの存在が、「被害が大きかった街」というブランディングに役立ち、補助金獲得・様々な形での支援獲得に役立ったとも言えるかもしれない。
そもそもこの保存費用の1億50百万円もクラウドファンディングで獲得しているし。

この2014年4月時点では、堤防の基礎工事のための、大量の杭打ちマシンが沿岸で稼働していた。

2017年5月

201705_陸前高田市 奇跡の一本松

大きな堤防は、既に完成している。

メジャーな観光地と化していて、訪問者の姿が引きも切らない。

 

陸前高田市中心部:街全体の盛土作業は終了

2014年4月

陸前高田 まるで空中都市

街全体に盛土を行うために、大型の土砂運搬用ベルトコンベアが街中に張り巡らされ、空中都市といった趣きだった。

2014年4月

陸前高田

大型クレーンで土砂運搬設備が建設中だった。

2017年5月

201705_陸前高田市 盛土用土砂運搬ベルトコンベア跡

既に土砂運搬による盛土は完了し、大型ベルトコンベアは撤去されている。

写真奥の山を切り崩し、ここから街中に空中に張り巡らしたベルトコンベアを通して土砂を運ぶ仕組みだった。

2017年5月

201705_陸前高田市 盛土用土砂運搬ベルトコンベア橋脚

大型ベルトコンベアの橋脚跡。

2017年5月

201705_陸前高田市 盛土

盛土は完了したと言っても、ただ土を盛っただけ、という状況。
これから道路を造ったり、インフラを敷いたりするのだろう。

2017年5月

201705_陸前高田市 土砂運搬ベルトコンベアによる盛土の解説

資料館の説明によると、盛土は、ダンプで運べば8年かかったはずのものが、ベルトコンベアによって1年6ヶ月に短縮できたとのことだ。
ベルトコンベアの撤去は、今年2017年2月に終わったとのこと。

 

 

道の駅高田松原 タピック45跡

2014年4月

陸前高田 道の駅

震災遺構として残してあった。

2017年5月

201705_旧道の駅高田松原 タピック45

震災遺構と言っても、お金をかけて綺麗に展示用に修復して、安全を確認して中を歩けるようにする、というような工事は施されていない。

中はめちゃくちゃにガレキまみれのまま。
かえって生々しい感じがするし、これならばお金もかからない。

 

2012年4月

DSCN0352

陸前高田市内の、海に向かって建てられた、社宅っぽい構造の建物。

4階まで津波をかぶったようだ。

2017年5月

201705_陸前高田市内の建物

これも一種の震災遺構として残すつもりなのか?

放置してある。


2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸

東日本大震災の被災地の定点観測シリーズ。

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田

そして今回が、2017年5月(震災から6年後)

それぞれの写真を並べて記す。


女川市中心部を抜けて、沿岸を北上する。

 

雄勝

雄勝は、硯の生産で有名な街。全国の硯の9割をここで作っていた。
平成の大合併の時に石巻市に併合された。

2012年4月

DSCN0214

雄勝硯伝統産業会館

笑顔咲く旅伊達な旅 : 雄勝硯伝統産業会館(現在休業中)

この時はまだガレキまみれだった。
2階部分の屋根には、トラックのコンテナが載っている。

2014年4月

雄勝 何もない

既に建物は撤去されていて、更地になり、消波ブロックを造る作業場となっていた。

2017年5月

201705_雄勝硯伝統産業会館跡地

同じ場所。

河川の流れを改修する工事をやっていて、雄勝硯伝統産業会館の跡地は、新しい河川になっていた。

河川の内側の法面のコンクリがぼこぼこに破壊されたので、補修するよりも川そのものを敷き直した方が低コストだから、ということなのかな?

 

2014年4月の時点で、「街そのものがそっくりなくなり、住んでいた人が街を放棄していなくなってしまったようだ」という印象を受けたが、それは変わらない。

ここに新たな街を作り直そう、という雰囲気は感じられない。

 

 

旧 石巻市立大川小学校

2014年4月

石巻市立大川小学校

逃げ遅れた生徒ほとんどが津波に呑み込まれてしまった小学校。

2階建ての校舎は壊れたまま放置保存されていた。

2017年5月

201705_旧大川小学校

校舎は、立入禁止のロープを張ったまま放置保存されている。

毎日新聞 2016/3/16 : 大川小を震災遺構に 石巻市長、校舎保存発表

震災遺構として残すことは決まったようだが、大勢が亡くなった場所なので、様々な思い・考えがあり、具体的にどのような形で残していくかはまだ決まっていないようだ。

イニシャルの保存整備費用は、6億70百万
年間ランニング費用は、23百万
かかるとのこと。

 

観光バスやクルマで見学に来る人の姿は引っ切りなしだった。

 

201705_旧大川小学校

亡くなった生徒のお父さんが語り部となって震災を解説するツアー一行がいて、紛れ込んで話を伺う。

「この道から山に登れば、かんたんに津波から逃れられたのに」
と語る。

大川小学校の悲劇については、学校の先生の間での派閥争いが原因で、山に逃げよう派と校舎に留まろう派に分裂してしまい、子供達がこれに巻き込まれた、というような解説を読んだことがあるが、今ひとつ真相はよく分からない。

この語り部のお父さん曰く、市の調査はいいかげんだし、真実を隠蔽して責任を逃れようとする態度が見え見えだ、とのことだ。
これも一つの見方に過ぎないので、その通りかどうかは分からない。

裁判はまだ続いている。

 

気仙沼線

2012年4月

DSCN0315

リアス式海岸に沿って走る鉄道路線で、トンネルや橋が多い。盛土部分に線路を敷いた箇所も多い。

この時期には、壊れたままの橋やらがそこかしこに放置されていた。

2014年7月(会派視察で訪問)

201407_気仙沼駅のBRTバス停

これは気仙沼駅。

2012年から、鉄道として復旧することを断念し、BRT化している。
鉄道軌道の一部は、BRT専用道路として再利用されている。

2017年5月

201705_気仙沼線志津川駅

南三陸町の、志津川駅。
BRTなので、要するにバス停なんだけど、常勤の切符窓口スタッフがいた。

この駅の対面に、新しい南三陸さんさん商店街がサービスインしたばかりで、広大な駐車場はほとんど満車で、すごく賑わっていた。

 

 

2017年5月

201705_気仙沼線

盛土の上の旧鉄道軌道と、鉄錆を吹いて放置されたレールと枕木。


2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島

東日本大震災の被災地の定点観測シリーズ。

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その4 牡鹿半島

そして今回が、2017年5月(震災から6年後)

それぞれの写真を並べて記す。


石巻市外を抜けて、万石浦をかすめて牡鹿半島へ。
半島の外周を反時計回りに走った。

 

月の浦

(これは2017年5月現在)

201705_牡鹿半島 月の浦の支倉常長像

月の浦の展望台。
展望台と言っても、全然眺望が効かないけど。

ここは、仙台藩の支倉常長率いる欧州使節団が、幕府の目を逃れてこっそりと出帆した場所で、銅像が建っている。

砂利敷のちょっとした公園内には、今でも仮設住宅が建っている。

201705_仮設住宅

近くで見かけた仮設住宅。
空室(既に出ていった部屋)もあるようだった。

 

小さな漁村

(2017年5月現在)

201705_牡鹿半島の新しい住宅街

あちこちで、高台の山を切り崩して、新しいニュータウンが造成されている。
戸数は10~30くらいの規模のものが多い印象。
ニュータウンの中は、一般家屋ばかりで、お店の類はない。
敷地内には、集会場や公園がある。

おそらく、この地域の小さな集落には、漁業以外の産業はないので、ほとんどが漁業を生業としているのではないかと推測する。
(交通の便が悪いので、観光業はあまり発達していない)

既に造成が終わり、家屋の新築が進んでいるところもあれば、まだ造成中のステータスのところもある。

 

これらはどういうことかというと、要するに、津波で壊滅した漁業集落をまるごと高台に移転したわけだ。

幾つかの集落の中をぐるぐる回ってみたが、5月とは言え昼間は気温30度近く、ほとんど人の姿はない。家の間取りやクルマの車種、洗濯物などから家族構成は推測できなかったが、おそらく、高齢化率はかなり高いものと思う。

これらのニュータウン集落の幾つかは、遠からぬ将来に限界集落化してしまう可能性がある。

いずれは限界集落となってしまう可能性が高い、戸数10~30くらいの小さなニュータウンを、大規模に山を切り崩して新たに造成するのならば、もう少しこう、コンパクトシティ的な漁業集落の集約化を図ることはできなかったものだろうか。

もちろん、住んでいた人たちは嫌がるだろうけど。

 

海岸では大きな堤防の建設が進む

2014年4月

牡鹿半島の小さな漁港

小さな漁港?堤防?
手付かずで放置されていた。

2017年5月

201705_牡鹿半島 建設中の堤防

さすがにもう完全放置状態の漁港や堤防はない。

背の高い堤防建設がそこかしこで進められていた。
もう出来上がっているところもあるが、ほとんどはまだ建設中のステータス。

(2017年5月)

201705_牡鹿半島 建設中の堤防

こちらも建設中の堤防。

(2017年5月)

201705_牡鹿半島 壊れた堤防

これは半島の東岸の集落。
後背の盛土は進んでいるが、堤防は壊れたままであった。

 

これらの様々な段階の建設中の堤防を見てみると、堤防建設というのが、かなり大規模な工事であることが分かる。てきとうな高さの型枠にざざっとコンクリを流し込んではいおしまい、というようなものではない。

これらの堤防は、一つ一つの入江を守っているわけだが、それらの入江の内側の陸の上には、既に人家がないようなところもある。

人が住んでいない場所を守るためにこのようなハイスペックな堤防が必要かというと何とも判断しにくいところ。他方で、震災前にあった古い堤防が破壊されているので、ノー堤防状態で放置するわけにもいかず、いずれにしても堤防は作り直さないとならない状況でもある。

 

漁業集落ニュータウンにしても全ての入江に建設されているハイスペック堤防にしても、全般的にオーバースペック過ぎるような印象も受けるのだが、素人判断はしにくい。そもそも、「完全に震災前の状態に戻す」というのが国策となっている現状で、そのような疑問を持っている人がいたとしても、唱えにくいだろう。

 

牡鹿コバルトライン終点(半島の先端側)

2012年4月

DSCN0145

通行止めになっており、路面上にはあちこち亀裂が入っていた。

2014年4月

牡鹿コバルトライン 一部は未だ再開せず

路面の修復は終わっていたようだが、まだ通行止めだった。

2017年5月

201705_牡鹿半島 コバルトライン終点

既に開通している。
2014年4月末に開通していたらしい。

 

女川原発PR館

(2017年5月)

201705_女川原発PR館

東北電力女川原発のPR館へ。

どこの原発でも、地域住民への広報が重要なので、かなりお金をかけた立派な広報施設を設けている。
見学者にはボールペンのお土産をくれたりなど、至れり尽くせり。

201705_女川原発は検査中

全ての原子炉が震災の時から止まったまま。

案内のおねいさんによると、2号機が原子力規制委員会の審査中で、来年度の稼働を目指しているとのこと。

女川原発の原子炉は沸騰水型なのだが、国の方針として、加圧水型の再稼働を優先的に進めているとのことだった。

 

ここの施設の、地域住民向けの広報誌が掲示板に貼ってあったのだが、この4月にこの女川原発に配属された新入社員は、25人いるとのこと。

新入社員が25人ということは、全社員数はおそらくその20~30倍くらいか?とすると全社員数は500~750人くらい?
この人数は、東北電力の正社員だけのはずなので、関連会社、下請け・孫請けを含めればさらに多い人数が、この稼働していない原発に、震災以来6年間張り付いていることになる。

2011年度の新入社員は、入社6年目なのに一度も原子炉の稼働を経験していないわけで、技術の承継という点では危うい状況。