検察官の定年延長を巡る法解釈変更への違和感

掲題の件、経緯については、2020/2/21産経の社説が簡単にまとまっていました。

 

事の経緯

【主張】検事長の定年延長 「解釈変更」根拠の説明を

答弁の混乱が事態の異様さを物語っている。事の本質は、法の番人である検察官の人事が、検察庁法にかなわない形でなされたことである。  しかも「解釈変更」の根拠について、明確な説明を伴わない。いかにも乱暴な印象を受ける。 …

検察庁法22条:「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する」
国家公務員法(昭和56年改正):一定の条件の下で定年の延長を認めている。

ここに矛盾があった。

昭和56年 国家公務員法改正時の人事院任用局長の答弁:「検察官と大学教員には国家公務員法の定年制は適用されない」=定年延長は不可

令和2/1/31 東京高等検察庁 検事長の定年延長が決まる。

令和2/2/12 人事院給与局長の答弁:「従来の解釈を現在まで続けている」

令和2/2/13 首相の答弁:「国家公務員法の規定が、検察官にも適用されると解釈することにした」

令和2/2/19 人事院給与局長の答弁:「法解釈の変更を1月中に行っていた、2/12答弁は、『現在』という言葉の使い方が不正確だった、と説明。

令和2/2/21 法務省の説明:「法解釈変更の決裁を公文書ではなく口頭で行った」

 

 

マスメディアの論調

この件について、ざっと眺め回してみると、マスメディアは概ね批判的です。

例えば、上の2020/2/21産経の社説では、

緊急時なら口頭決裁が許される場合もあるが、今回は当てはまらない。よりによって法務省が、法治国家の行政のありようを傷つけたのは問題だ。検討経過を詳(つまび)らかにしてもらいたい。

2020/2/21毎日の社説では、

社説:検事長の定年延長問題 これでも法治国家なのか – 毎日新聞

法律の解釈を恣意(しい)的に変える。それが法治国家のすることだろうか。 安倍政権が黒川弘務・東京高検検事長の定年を延長した問題は、さらに疑問が深まっている。 1947年に制定され、検察官の定年を定めた検察庁法には、延長の規定がない。81年に国家公務員法が改正され、一般職の定年や延長の特例が定められたが、人事院は当時、「検察官に国家公務員法の定年制は適用されない」と答弁していた。 …

法律の解釈を恣意(しい)的に変える。それが法治国家のすることだろうか。

40年近く維持された法解釈を時の内閣が好き勝手に変えてしまうことには、大きな問題がある。

法律は、趣旨や適用範囲を議論した上で国会が制定する。運用の原則を変えるのならば、法改正を議論すべきだ。解釈変更で済ませるのは、国会軽視に等しい。

 

時の政権が「法解釈の変更」をしても、いいものなのか?

これは、アリです。
法は、上から下までピラミッド型の体系・システムから成っておりおります。
法の文言には、解釈の余地・幅が設けられている場合があります。
上位の法に解釈の余地・幅がある場合は、下位の法によって解釈を行うのは、よくあることです。

但し、政権・行政府が自分たちに都合がいいように恣意的に行うのは、ナシです。

歴史の評価に堪えられるように、正当な手続きを経て、明確な根拠とその説明を伴い、極めて慎重に行う必要があります。

 

立法府は政権・行政府を批判的にチェックするのが仕事ですし、特に野党側はありとあらゆる機会を捉えて政権・与党側を攻撃するべき存在です。

法解釈の変更の手続きが適正なものであったのか、事後的に追及するべきでありますし、これに堪えられるものでなくてはなりません。

 

何をもって適正と判断するか?

これは、いろいろな視点があろうかと思いますが、

・世論
・学者の意見

が、ポイントだと思います。

 

また、立法府としては、法の解釈の余地・幅を残し、時の政権の恣意的(かもしれない)運用を許してしまった立法を行ったことについては反省するべきだと思います。

 

 

世論の解釈は難しい

これは本当に難しい。

世論などという、ぼんやりしていて曖昧なものは、なかなか明確に分析しきることができるものではありません。

さらに、一つの「世論の解釈」から導き出される結論・政策案も、真っ二つに分かれることも多々あります。

 

ありとあらゆる全てのマスメディアは、多かれ少なかれ偏向しています。
偏向していない、完全に中立な立場というものはあり得ません。

もちろん、偏向しているのは悪いことではありません。
全てのマスメディアが偏向していることを前提に、多様性を確保することが大切です。
たちが悪いのは「自分たちは公正中立だ」とのたまう連中です。そんなものはあり得ないのに。

国民投票・住民投票のような、適切な手続きに従って、明確に○か×か問うようなものであったとしても、その解釈も、そこから導き出される結論・政策案も一つではなく、立場によって多様に分かれる場合があります。

例えば、市町村合併の是非を問う住民投票で賛否の結果が7:3になったとして、
・「7割もの人が賛成だった」→だから、合併を進めよう
・「3割もの人が反対だ」→だから、合併はやめるべきだ
などといったように。

 

多数派が、必ずしも正しいわけではありません。

多数派の考えに従うのが、民主政治の正しい在り方でもありません。

 

 

世論調査では、明確に数字で結果が出力されます。

検事長の定年延長「問題ある」54% 日経世論調査

日本経済新聞社の世論調査で、政府が法解釈を変更して黒川弘務東京高検検事長(63)の定年の延長を閣議決定したことについて「問題があると思う」と答えた人が54%にのぼった。「問題があるとは思わない」は32%だった。 内閣支持層と不支持層で「問題があると思う」と答えた人の割合に差が出た。支持層では36%だったの…

しかしながら、世論調査という手法は、統計学的なサイエンスの領域に属するものですが、ちょっとした設問の文言の書き方一つで、調査結果の数字は天地ほども異なってくる場合も多く、また、数字の解釈も立場によって多様です。

上の日経の世論調査の結果の例で言えば、

・54%もの人が問題視している!
と言うこともできるし、逆に、
・32%もの人は問題だと思っていない!→拡大解釈すると「正しいと思っている!」とまで言うこともできてしまうかも。

 

余談ですが、

「世論・民意は○×と言っている」と言い切ってしまう政治家の態度は、傲慢であり、信頼に足るものではありません。
(まあ、そういう言い方、しますけどね。私も。)

せめても言えることは、「世論・民意の一部は○×と言っている」あるいは、「世論・民意の多数は○×と言っている可能性が高い」といった程度であり、大切なのはそのような謙虚な態度ではないでしょうか。

 

かように、定量的に分析して解釈することが不可能な「世論」ですが、肌で感じ取ることができる人たちがいます。その能力を「政治的センス」と言います。

 

 

ということで、私がその政治的センスが優れているなどと思っているわけでもなく、この稿に結論はないのですが、私の拙い感覚からすると、この法解釈変更の件はちょっとまずい感じがしますね。長期政権の驕り、気の緩みというレベルではない、異質な違和感を感じます。