自民党青年局の被災地巡りツアーは、翌日、石巻市の旧 大川小学校へ。
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設
犠牲者に献花して黙祷を捧げました
この小学校では、当時の児童78人中、70名が死亡、4名が行方不明という、大惨事が出来しました。
被災を免れた4人の児童は、保護者がやって来て強引に連れ帰って避難したために助かりました。
地震発生後、津波がやってくるまでに高台に逃げる十分な時間はあったのですが、それを行わなかったことによる人災、という側面があります。
尚、学校の教職員11人のうち、10人の方もお亡くなりになっています。
(生き残った1人の方は、心を病んでしまったとのことです)
献花して黙祷を捧げました。
2列目の青いビブを着ているのが私ですね。
斎藤正美 石巻市長よりお話を伺う。
大川小学校の全景。
モダンな平屋建ての建物でした。
震災遺構として整備されて保存されています。
教室。
卒業制作の壁画が残っています。
名古屋から来た学生たちが鎮魂の植樹をしていました。
なぜ、高台に避難しなかったのか?
被災児童の遺族が、「なぜ、高台に避難しなかったのか?」真相を明らかにすることを求めて石巻市と宮城県を相手に血みどろの民事訴訟を起こしています。
最高裁まで争い、2019年、学校側の過失が認定された上で、損害賠償が市と県に命じられ、原告側の勝訴が確定しています。
震災遺構、伝承館は、石巻市の学芸員の方が思いを込めてデザインしたそうです。
この学芸員の方に、「裁判が終わり、遺族の方々の心の中のわだかまりは溶けたのですか?」と訪ねてみました。
言い淀んでおられましたが、回答は否でした。
行政パーソンとしては、ここまでが話せる限界です。
たまたまそばにいた市長が、高台に避難しなかった理由の真相を語ってくれました。
裁判では語られなかった、表には出せない歴史であり、私も、ここに書くことは出来ません。
しかしながら、後世へ残すべき教訓として、30年後くらいに何らかの形で発表してほしいと思います。
校庭と裏山。
敷地内に建つ伝承館にて。
津波の時に止まった掛け時計。
橋の右岸のたもとに大川小学校があります。
周囲は人家が密集していました。
今は、人家は一軒もありません。
過去の東日本大震災被災地視察のレポート
2012年4月 私費で個人視察
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石
2012年7月 私費で個人視察
2014年4月 私費で個人視察
東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く
2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察
2017年5月 私費で個人視察
2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ