2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老

先日、令和6年(2024年)7月29-31日、自民党青年局の企画で、東日本大震災の被災地を巡るツアーに参加してきました。

私も先々月、とうとう50代に突入しましたが、当選時点で50歳未満というのが入会資格なので、まだ青年局に属しています。つまり、52歳まで青年局員ということになるわけですが、高齢化日本を象徴しているような感じで個人的にはあまり愉快ではないですね。

行き先は、岩手県から宮城県、福島県へと被災地を南下しました。廃炉作業が進む福島第一原子力発電所の中にまで入れる、という極めてレアな機会なので参加しました。

尚、このツアーの一切の費用は、自民党から出ております。
なぜか参加者に対して日当まで支給されております。

 

 

東日本大震災は、多くの日本人の人生観を変えました。

私の友人にもその類がたくさんおります。

震災を契機に政治の道を志した人もたくさんおりますし、私のその一人です。

 

 

東日本大震災の被災地には、数年おきに訪れて定点観測しています。

復興が進む様子も、逆に、復興が進まない様子も、年月を置いて定点観測することによって、見えてまいります。

 

以下に、7つの記事に分けて、視察ツアーのレポートを致します。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

 

田老へ

田老は、平成の大合併で宮古市に吸収合併されるまでは、田老町という町でした。

訪れたのは、その中心部です。

漁港を中心に、狭い陸地に人家が広がっていました。

震災・津波直後の田老の様子は、こちらの日経のサイト内に写真レポートが掲載されています。

 

 

震災遺構 たろう観光ホテル

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

基礎が頑丈だっため、地震には耐えたものの、津波に被災したこの建物は、2階までは壁も部屋の中身も丸ごとなくなっています。

3階は窓ガラスがありませんので、津波は3階まで押し寄せてきたようです。

 

 

震災遺構として整備され、公開されています。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

建物の横から。

左側の建屋は、エレベータ棟です。
震災遺構として公開するに当たり、新たに設置されたものです。

最右の、青い自民党青年局ビブを一人だけ着ているのが、私です。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

1階の鉄骨。

エレベータ室の骨組みはひしゃげてしまっていますが、建物全体の骨組みは頑丈でした。

 

青いビブの背中が、私です。

 

 

自ら被災した語り部の方のお話

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

自ら被災した地元の方が、語り部となって体験を話してくれました。

まだ行方不明のままのご家族がいるそうです。

 

この部屋は、↑一番上の写真における、右上の5階の、ホテルの客室です。

津波襲来当時、ホテルはまだチェックインタイムが始まっておらず、ホテルオーナーがこの部屋で津波の様子を動画撮影していました。

その動画をこの部屋で見る、という生々しい趣向です。
(この動画は、あまりにも生々しいために広く公開されておらず、ここでしか見ることが出来ません。)

 

 

津波てんでんこ

田老の街の人たちの、津波がやってくる時の合言葉です。

 

津波がやってくる時は、みんな、てんでばらばらに高台に避難するんだ!という意味です。

 

蕨市においては、町会ごとの避難訓練でも、総合防災演習でも、町会の班ごと、あるいは町会ごとに集まった後に避難場所に移動する、という手法が取られています。

歴史上、何度も津波に被災し、多くの死者を出してきた田老では、それではダメだ、各自それぞれ一刻も早く急いで逃げろ!と、子々孫々に伝えています。

 

「津波てんでんこ」は、自分の命は自分で守れ、という防災教育です。

「自助・共助・公助」というフレーズがありますが、「津波てんでんこ」という言葉が示すのは「自助」だけです。

 

私は、小中学生時代の一部を仙台で過ごしましたが、仙台の小中学校でもこの言葉を教えていた記憶があります。

 

 

田老の街の人々の、防潮堤についての考え方

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

部屋の窓から。

かつては沿岸部には漁師の方々の家々が立ち並んでいたようですが、今は誰も住んでいません。

 

歴史上、何度も津波に被災している田老の防潮堤は、2011年の東日本大震災当時、10mの高さがありました。

それでも津波の高さは16mもあり、当時の防潮堤を越え、街は壊滅しました。

 

大震災の後、防潮堤を造り直すに当たり、

・とにかく高い防潮堤を造るか
・防潮堤の高さは抑えて、海が見えるようにするか

これは、街の住民の考え方次第です。

その後、実際にどのような復興施策を行うか、街によって防潮堤の高さは全く異なります。

 

田老においては、「とにかく高い防潮堤を造り直す」という方針を決めました。

 

↑上記写真は、既に完成した新しい防潮堤です。

高さは、14.7mもあります。

おおむね、5階建てのビルに相当する高さです。

 

街からは、まったく海が見えません。
(上記写真においては海が見えますが、5階の高さから撮った写真だからです。地上からはまったく見えません。)

息苦しい、閉じ込められたようだ、という意見もあるようですが、それでもなお、これが田老の街の人々の選択でした。

 

語り部の方は、

「防潮堤は、津波がやってきて、遺体が流出するのを防ぐ役割も果たす」

とおっしゃっていました。

この14.7mの防潮堤があってもなお、これを越えてくる津波が再びやってきて、少なからぬ死者が発生することも覚悟しています。それでもなお、家族には遺体となったとしても戻ってきて欲しいという願いを守ってくれるのが防潮堤の役割だ、という考えです。

自ら被災し、未だにご家族が行方不明のままという語り部の方の生々しいお話は、ただただ黙って聞くしかありませんでした。

 

 

沿岸部の被災した家々の人たちは、新たに高台に切り拓いた住宅街に移り住んでいます。他方で、元からある程度の標高の場所に住んでいた人たちは、家が津波に飲み込まれることはありませんでした。

この違いは大きく、田老の街の住民の中で、未だに意識の分断があるそうです。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

たろう観光ホテルの5階より。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

視察団全員で記念撮影。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


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