2025年3月 東日本大震災被災地巡り 牡鹿半島

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問して定点観測するシリーズ。

 

牡鹿半島を訪れた過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その4 牡鹿半島

2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島

 

 

牡鹿半島の、防災集団移転促進事業による、高台移転団地

リアス式海岸から成る牡鹿半島は、入り組んだ小さな入り江が多く、平地が狭いために、大きな集落は発展しませんでした。仙台からもクルマで2,3時間はかかり、遠いために観光地としても発展しませんでした。漁業を生業とする、小さな集落がほとんどだったようです。これらの漁業集落では、人家は漁港の近くに密集して建ち並んでいました。

そして、大震災では、それぞれの集落が壊滅的な打撃を受けました。

 

 

これらの漁業集落は、防災集団移転促進事業によって、高台の山の中を切り開いて造成した新しい土地に、集団移転しています。

コンパクトシティ的な発想によって集落が集約化されることはなく、それぞれの集落がそれぞれ高台移転しました。

 

国庫補助100%による高台移転住宅は、その後、今日では、多くが限界集落化している経緯については、先の記事にて解説した通りです。

 

実際、どんな感じなのか?

牡鹿半島の高台移転住宅の現在の姿を、見に行ってみました。

 

 

※以下、写真に個人宅が写っているために、集落名は記載しません。

 

 

高台移転住宅その1

2017年5月に写真撮影した場所を再訪してみました。

201705_牡鹿半島の新しい住宅街

2017年5月

新築住宅を建設中でした。

202503 牡鹿半島

空き地もなく、家々は、一通り建ち並んでいます。

真新しいニュータウンといった趣です。人家の数は13軒ですが、公園もあり、広々とした造りです。

 

 

高台移転住宅その2

202503 牡鹿半島

高台に登ったところに新しい高台移転住宅の団地が造成されています。後背の山の姿を見れば分かる通り、木を伐り、山を削って造られています。

202503 牡鹿半島

住宅地の中に入ってみます。

ここも、空き地はなく、広い敷地に大きな家がゆったりした造りで建ち並んでいました。家のサイズや、クルマの数などが察するに、ほぼ全てがファミリー物件です。

 

 

高台移転住宅その3

202503 牡鹿半島

手前の建物は、この集落の集会所です。

202503 牡鹿半島

コンクリート敷の駐車場と家屋の隙間の地面からは雑草が茂り、空き家となっていました。

しかしよく見ると、この写真の家々は、同じ形、サイズなんですよ。

注文住宅というよりも、建売分譲住宅だったのかもしれません。推測するに、サイズが小さいので、高齢者のみの夫婦・もしくは独居の世帯向けの住宅だったのではないでしょうか。

 

 

以上、3つの高台移転住宅の集落を見てきましたが、あちこち空き地だらけ、空き家だらけといった状況ではありませんでした。

 

 

捕鯨の街、鮎川

牡鹿半島の中で最大の集落、鮎川。

ここは、平成の大合併によって石巻市に吸収される前の牡鹿町の町役場がありました。

捕鯨の街としても有名です。

 

202503 牡鹿半島 鮎川

かつての空中写真を見ると、震災前は港の際まで人家が密集していたようです。

今は漁業関連施設、捕鯨をテーマとした博物館などがあるのみで、人家はありません。

 

202503 牡鹿半島 鮎川

高台にある住宅地は、おそらく被災しなかったものと思います。

 

DSCN0141

2012年4月の様子

202503 牡鹿半島 鮎川

2025年3月現在の様子

写真左奥の、高台の大きな建物は、石巻市役所 牡鹿総合支所。合併前の牡鹿町役場でした。

手前の平地部は、がらーんと空き地が広がっています。

手前部分は、「健康づくりパーク」という名前のパターゴルフ場となっておりますが、周辺の土地は市有地ですが、石巻市は、貸付けまたは売払いの募集を行っています。借りても買ってもどちらでも対応可能なようです。

借り手も、買い手もいない、といったところでしょうか。

 

202503 牡鹿半島 鮎川 第十六利丸

港には、捕鯨をテーマとした博物館があり、捕鯨船の第十六利丸が展示保存されています。無料で公開しており、中には入れないものの、デッキまでは上がれるようでした。訪問した時間が少し遅かったために、デッキに上がれなかったのは残念。


2025年3月 東日本大震災被災地巡り 石巻市 南浜町・門脇町地区

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問するシリーズ。

 

石巻市中心部を訪れた過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その3 石巻

2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻

 

 

南浜地区と門脇地区の被災状況の概要

海岸からは、800mくらいは平らな土地が続いています。

震災前は、南浜町、門脇町ともに住宅が密集して立ち並ぶ、住宅街でした。石巻市立病院も南浜町に所在していました(今は石巻駅前に移転)。

ほぼ全域が津波をかぶり、建物はほぼ大破し、数百名規模の死者を出しています。津波によって流されたガレキに引火して、大規模な火災も発生しています。

 

今日では、南浜町においては、人家はゼロであり、居住人口はゼロです。門脇町も、居住人口は減りました。

南浜町は、ほぼ全域が石巻南浜津波復興祈念公園という、静かで広い公園になっています。

 

 

旧 門脇小学校の被災状況

門脇小学校は、海岸からは800mくらいの後背の丘のふもとに位置していますが、高さ1.8mの津波がここまで押し寄せています。

ガレキが引火して火災が発生し、3階建て校舎の3階まで火が燃え広がりました。

 

後背に山が位置していて避難しやすいという地理的条件、日頃から訓練を重ねていた成果により、発災時に学校にいた生徒・教職員の人的被害はゼロでした。

(下校途中の低学年児童が7名、犠牲になっています)

 

前述のように、南浜町、門脇町の居住者はほとんどいなくなったため、学校は2015年に廃校になっています。

 

 

震災遺構 門脇小学校を見学

震災遺構として整備し、2022年にミュージアムとして有償(大人は600円)で一般公開しています。

 

私は、ここを訪れるのは初めてでした。

202503 石巻市 門脇小学校跡

遠くから校舎を見たところ。

写真右側の建物は、展示・事務棟。

 

後背の小高い丘は公園となっており、学校では、日頃からここに避難する訓練を行っていました。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

津波をかぶったのは、おおむね1階程度までだったようですが、前述のように、火災によって3階までが外装はボロボロになっています。窓ガラスは割れたまま。

この樹木は、震災後、若い芽が出てきて育ったものだそうです。

 

入場料を支払って、中に入ります。

202503 石巻市 門脇小学校跡

1階の校長室。

津波+火事の両方により被害を受けています。

3月11日といえば、年度末ですが、作成済みの通知表は金庫の中に保管していて、無事だったそうです。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

廊下。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

火事で焼けたままの姿。

机とイスは、木の部分は燃え落ち、金属パイプ部分のみが残っています。

 

 

それにしても、よくも被害にあった姿のまま残していたものです。

机やイス、什器のそれぞれを、全く動かすことなく、そのまま保存して、これを見学できるようになっています。

 

 

心情的には、このような姿を目にしたら、片付けたくなるものです。

敢えて片付けたい気持ちを抑えて、後世への教訓とするために、そのまま残したのではないでしょうか。

この学校の校内での人的被害が1名でも出ていたら、やはりそうはいかなかったでしょう。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡に展示されている消防団車両

体育館が、展示コーナーとなっています。

牡鹿地区の消防団車両が、津波で流されて大破した姿で展示されています。

 

他にも、体育館内部には、仮設住宅の実物も改築展示されていました。

 

 

石巻南浜津波復興祈念公園

202503 石巻南浜津波復興祈念公園

石巻市内の犠牲者全員の名前を記した慰霊碑がありました。

石巻市内だけでも、3千2百名が死亡しています。(行方不明者を除く)

後ろに見えるのは、石巻市営 門脇西復興住宅です。

 

 

公園の中央部には、みやぎ東日本大震災津波伝承館が建っており、ここは無償で見学することが出来ます。

 

 

伝承館は、いつまでやるのかな?

伝承館、これは必要だと思います。

 

既に大震災の発災から14年が経ちました。今の中学2年生が生まれたときです。今の中学生以下は、リアルタイムに体験していないのです。

 

伝承館の果たすべき役割って、2つあると思うんですよ。

  1. 新しい世代に対して、教訓を伝える。
  2. (遺族の方にとって)自らの家族がその日にどのように被害に遭ったのかという記憶を子孫に伝える。

あと70年くらい経てば、「その時点で生きている世代」全てが、リアルタイムな震災の体験をしていない、ということになります。

語り部もいなくなります。

その時がくれば、引き続き1「教訓を伝える」は必要だとしても、2「記憶を伝える」は、伝承館という形で行う必要はなくなるかもしれませんね。

 

 

博物館・ミュージアムって、維持費が膨大にかかります。かと言って、中途半端な低予算で運営し続けようとすると、様々な展示物は年月が経つにつれてだんだん色褪せて古臭くみえてきて、伝えるべき教訓・記憶までがショボく感じてきてしまうんですよ。

上記の旧 門脇小学校のような、震災遺構も、エレベータを設置したり、外壁の剥離予防の工事を施すなど、開設までに8億5千万円の費用がかかっています。常勤スタッフは何人もいるし、ランニング費用もかかります。

 

 

私のこの考察に対して答えはないのですが、今、私が思い出したのは、桜島の埋没鳥居です。

2005/3 桜島埋没鳥居

2005年3月に訪れた、桜島、黒神の埋没鳥居。

 

大正3年(1914年)の桜島の大噴火の際に埋まった鳥居です。

後に氏子の方々は掘り起こそうとしたそうですが、当時の村長の英断により、そのまま残り、噴火の恐ろしさ、被害の大きさを雄弁に語り続けています。

これはランニング費用ゼロですね。

「教訓を伝える」成果とランニング費用を考えた場合、コスパ抜群の方法と言えます。


2025年3月 東日本大震災被災地巡り 奥松島・野蒜

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地である、奥松島・野蒜~石巻~牡鹿半島を再訪しました。

この災害の被災地には、数年おきに訪れ、同じ場所の復興状況/復興していない状況を定点観測しています。

 

野蒜についての過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その2 野蒜

2017年5月(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島

 

 

仙石線 旧野蒜駅

2025/03 旧野蒜駅

2階の途中まで津波が入ってきた駅舎は、東松島市 震災復興伝承館としてリニューアルされていました。

2017年時点では、2階のみが資料室となっており、1階にはファミリーマートが入居していましたが、今は全館が津波災害の伝承施設となっています。

展示物の多くは、写真パネルです。

 

観光オフシーズンゆえに、広い駐車場には数台のクルマしか停まっていませんでしたが、時おり家族連れなどのツーリストが訪れて展示資料に見入っていました。

 

2025/03 旧野蒜駅

ホームと線路は、震災遺構として保存されています。

 

2025/03 旧野蒜駅

ホーム上には上がれませんが、周囲を一周できるような歩道が整備されていました。

 

私は、震災から13ヶ月後の2012年4月にここを訪れて、あっちを向いたりこっちを向いたり折れ曲がっている電柱・架線柱、切断され垂れ下がったままの架線、砂で埋もれた構内のレールという生々しい状況を見学しました。あの頃の状況と比べると、きれいに整ってしまって、津波の被害をイメージしにくいことは否めません。

 

(参考)

P4139660

2012年4月、野蒜駅ホームの様子。

 

 

2025/03 旧野蒜駅前

旧駅前。

 

 

野蒜海岸

ガキの頃に、親の転勤で仙台に住んでいたことがあり、ここに海水浴に来たことがあります。あまり覚えていませんけど。

 

2025/03 野蒜海岸

護岸工事は完了しています。

 

2025/03 野蒜海岸

静かな海岸。

 

震災・コロナ禍後、2022年には海水浴場として再開したものの、利用者低迷のため、わずか2年で終了したようです。

河北新報の記事の中では、震災の影響というよりも、娯楽が多様化して海水浴離れが進んだため、と分析されています。

 

2025/03 野蒜海岸

かんぽの宿奥松島と、周辺の被災直後の空中写真が、旧野蒜駅の伝承施設に展示してありました。

 

2025/03 野蒜海岸 松の防砂林

松の防砂林が植林されていました。

まだまだ背が低く、防砂林として役に立つようになるのは何年もかかりそうです。

 

震災前には、この後背には人家が立ち並び、中学校もありましたが、今は何もありません。

 

 

 

新 野蒜駅周辺の野蒜ヶ丘 住宅地

JR仙石線は、仙台から石巻まで、海岸沿いを走っていた鉄道路線ですが、大規模に被災しました。

新たにルートを山側に変更して、2015年5月には営業再開しています。
海に近い場所を通る区間では、津波被災時の被害を軽減するために、高架化されているところもあります。

 

2025/03 新 野蒜駅

高台に再建された新 野蒜駅。

 

この新 野蒜駅と、お隣りの新 東名駅は、標高が高い山の中を新たに開拓して、鉄路が敷かれています。

周辺には、同じように山を切り崩し、あるいは逆に盛り土をして、新興住宅団地「野蒜ヶ丘」が開かれています。

 

2017年に訪れたときは、まだ住宅地は半分くらいしか家が建っておらず、あちこちで建築の槌音が響いていました。

2025/03 野蒜ヶ丘の住宅街

今は、空き地もなく、びっちりと家が建ち並んでいます。

後述しますが、人気の住宅街であったとのことです。

 

2025/03 野蒜ヶ丘の住宅街

一見すると首都圏郊外のニュータウンのような印象も受けますが、一軒一軒の家々は、敷地が広く、また、一軒あたりのクルマが2台、3台と駐車してあるのは当たり前である点が、大きく異なります。

 

2025/03 野蒜ヶ丘のカフェ

ちょうどお昼時だったので、google mapで探してカフェに入り、カレーライスをいただきました。

 

お店を一人で切り盛りしている御婦人と話をしました。

・震災前は、野蒜の川沿い(東名運河のことかと思います)に住んでいた。

・やはり野蒜に住み続けたくて、野蒜ヶ丘の住宅地募集に何回も申し込んだ。山を削った土地が人気で、盛り土した土地は地盤が弱いから不人気だった。3回目でようやく抽選に当たった。

・山を削ることによって余った土は、巨大なベルトコンベアを設置して運び出した。
陸前高田のベルトコンベアと同じものですね)

・野蒜ヶ丘の造成が終わり、土地の募集が始まるまでに、震災から8年間がかかった。待つ時間は、体力勝負だった。
(この8年間は、仮設住宅に住んでいたのでしょう。狭くて不自由が多い仮設住宅に8年間も住みつつ待ち続けたのは、さぞ体力も気持ちも削られたことと思います)

・家族や家を失って、野蒜を離れた人もいるが、墓参りに戻ってきたときに、ゆっくり休める場所がない。知っている人の家も、どこにあるか分からない。新しい家だらけで、どこの家のチャイムをピンポーンと押したらいいか分からない。電車待ちの間にコーヒーを飲んで一息ついて、心の整理ができるようにと、カフェを開いた。カフェ営業の経験があったわけではない。


東日本大震災の復興のために高台を削って造った集団移転住宅地の多くが、限界集落に。

本日、令和7年(2025年)3月6日付け読売の記事より。

東日本大震災では、多くの、海辺の小さな漁村集落が被災しました。これらの復興のために、高台の山を削って造成し、小さな集落を丸ごと山の中に集団移転することを目指しました。

今日においては、これらの多くが高齢化、過疎によって、空き家・空き地となってしまっている状況が解説されています。

膨大な復興費が、無駄となってしまったわけで、暗澹たる気持ちになりました。

 

 

県が全額国費による整備を要望すると、国も容認した。対象となった自治体の元幹部は「少しでも負担を求められたら、あれだけの事業はできなかった」と言う。自らの懐が痛まないことが、大規模造成に走らせたことは否めない。遠藤さんは「集落ごとに形態や文化が異なるのを読み切れなかった。住民と話し合う時間も不足していた」と語る。

全額国庫負担だったため、地方自治体の見通しが甘くなってしまった、住民との話し合いも不十分であった、とのことです。

 

見通しが甘かった、話し合いが不十分だった、というのは、本当にひどい言い訳です。

東日本大震災以前から、これらの地域は、高齢化が進み、不可逆的な過疎に苦しんでいたわけで、今日の状況が予測できなかったはずがありません。

 

2017年、表面的に視察して考察しただけの私にすら、今日の状況は容易に想像することが出来ました。

201705_牡鹿半島の新しい住宅街

2017年、牡鹿半島の、高台を削って造成した集団移転住宅地にて。

 

 

今日の状況のようになる将来が容易に予測できたにもかかわらず、自分たちの懐が傷まないから、将来予測に目を背けてモラルハザードを生じさせてしまった、というのが真相だと考えます。

 

あの時は、「被災地のすべてを、震災以前の状態に完全に元通りに復興する!」というのが、国全体の意志であり、反対しづらい雰囲気があったことも事実であります。

 

 

みんなが、今日のひどい状況を予測できていながら、それを防げなかったことは残念であり、教訓を汲み取って今後に活かしていかねばならないと思いました。

 

今後、ますます人口減少、高齢化は進みます。

他方で、温暖化による自然災害の激甚化・頻発化も増しています。

今後は、甚大な災害が発生した際は、これを奇貨として都市インフラのスマートシュリンクを進めていく発想が必要であると改めて感じました。


蕨市総合防災演習がございました

先日、令和6年(2024年)11月17日(日)、南小学校におきまして、蕨市総合防災演習がございました。

蕨市、蕨市消防本部、蕨市消防団、市内全地域の自主防災団体(町会など)に加えて、陸上自衛隊第32普通科連隊、埼玉県警、NTT東日本・東京ガス・市内の水道工事業者などのインフラ事業者が参加しました。

以前は毎年夏に開催しておりましたが、暑くてたまらないので、この時期に変更したものです。

開催場所は、毎年市内各地を巡回しております。

 

20241117 蕨市総合防災演習

オープニングは、消火器を用いての消火訓練。

WSS(蕨サポーティングスチューデンツ。市内中学校有志による自主防災団体です)、町会有志、ボーイスカウトが練習用ダミー消火器を用いて消化する訓練を行いました。

上記写真では、ホースから放出されているのは水ですが、これは、練習用ダミー消火器だからです。本物の消火器であれば、消火剤の泡が放出されます。

 

消火器の使い方なんて、たいして複雑なものではないし、何なら、本体に使い方の解説もあります。

しかしながら、いざ火災が発生した時に、焦らず慌てずに操作するためには、日頃から繰り返し訓練をしておくことが大切です。

 

20241117 蕨市総合防災演習

蕨市消防本部の消防士による、はしご車を用いての火災現場からの救出訓練。

建物で火災が発生して、屋上に逃げ遅れた人が取り残されてしまった、という想定です。

一点のムダもない華麗な動きには見惚れてしまいます。

蕨市消防本部の皆様の、市民の安心と安全を守るための活動に感謝申し上げます。

 

20241117 蕨市総合防災演習

ドローン事業者による、ドローンを用いた現場撮影デモ。

このドローンは、チャイナのDJI社製でした。

 

ところで、令和6年度より、埼玉県では、災害現場の上空緊急観測の実証実験を行っております。

本年2月の予算特別委員会にて、私は、産業用ドローン市場においてチャイナメーカのシェアが高いこと、中共の国内法によってチャイナ企業は共産党政府に対して、これらのデータの提供義務を負うこと、諸外国では政府機関がチャイナ製デバイス・アプリの使用を禁止している例が多いことを指摘しました。その上で、災害現場をチャイナ製ドローンで撮影することは、ドローンによって収集される映像と位置情報によって、被害の状況、道路交通ネットワーク上、脆弱な位置の地理的な情報、自衛隊、消防、警察、消防団等の民間団体の活動状況、装備、練度、士気の高さ、相互連携状況といった情報が中共政府に筒抜けになってしまう可能性は否定できず、安全保障上の懸念があると指摘しました。

あわせて、県においては、チャイナ製ドローンの使用を禁ずる内規を設けるべきだと主張したところです。

 

20241117 蕨市総合防災演習

ドローンによる空撮映像。

最近はもはや珍しくなくなりましたね。

 

20241117 蕨市総合防災演習

火災現場の煙体験コーナ。

ダミーの煙なのですが、甘い香りがします。

 

20241117 蕨市総合防災演習

スタンドパイプによる消火訓練。

スタンドパイプとは、街中の消火栓にホースを繋いで、消火活動のための放水ができる装置のことです。

プロの消防士が使うものとはことなり水圧が低いようで、素人でも使えるようになっています。

とはいえ、やはり日頃から訓練を繰り返しておかないと、いざ火災が発生した時に迅速に使いこなすのは大変でしょう。

 

20241117 蕨市総合防災演習

陸上自衛隊第32普通科連隊のメガクルーザの運転席に乗させてもらいました。

このクルマ、いいな~。

しかし、燃費悪そうだし、デカ過ぎて運転はしにくそうです。車両の左前の先端は、よく見えません。シートは安っぽいシンプルな造りで、長時間乗るとお尻が痛くなりそうです。

 

20241117 蕨市総合防災演習

市内物流業者による、物資運搬訓練です。

この他、各インフラ事業者が、それぞれの専門分野の訓練デモを行いました。

 

20241117 蕨市総合防災演習

締めは、消防団による消火訓練。

 

20241117 蕨市総合防災演習

消防団員が一斉に校舎に向かって放水を行いました。

 

関係者の皆様、お疲れ様でした。


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所

自民党青年局の被災地巡りの最終日は、廃炉作業が進む東京電力 福島第一原子力発電所へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

個人で申請して中に入れる場所ではないので、個人的には、最も楽しみにしていた訪問地がここでした。

 

 

富岡町~大熊町の様子

以下は、国道6号沿い、バスから眺めた街の様子です。

202407 富岡町~大熊町

帰還困難区域においては、建物の解体作業が順次進められています。

写真奥の家は、ツタが屋根の上にまで伸びて家に覆いかぶさるように成長しています。

 

202407 富岡町~大熊町

ケーズデンキ双葉富岡店

2011/3/11直後の新規オープン予定だったとのことで、一度も営業したことがない店舗です。

一応、取り壊しは行わず、草刈りなどのメンテナンスはしているようです。

 

 

地図と照らし合わせてみると、ここは、特定復興再生拠点区域です。

当初、帰還困難区域として指定されたものの、政策的に除染やインフラ整備などを集中的に進めた結果、住民の帰還・居住が可能になったエリアです。

 

政策的に選択され除染した地域であり、元々の放射線量が少なかった地域ということではありません。

富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村の6町村のうち、それぞれの町村の中心エリアが、特定復興再生拠点区域に選択されています。

 

202407 富岡町~大熊町

建物は取り壊され、塀のみが残っています。

 

202407 富岡町~大熊町

パチンコ屋。

 

202407 富岡町~大熊町

ここは一面の水田だったとのことですが、今は、草が生えたままの荒れ地となっています。

 

202407 富岡町~大熊町

特定復興再生拠点区域では、人が住み始めています。

震災後に建てられた新しいアパートかな?

 

 

福島第一原子力発電所で働く人たち

廃炉作業に従事する、東京電力及び関係会社のスタッフの皆様に感謝申し上げます。

 

現在、東京電力の社員1,000人、関係会社3,000人、合計4,000人のスタッフが廃炉作業を行っています。

 

後述のように、まだこれから廃炉完了まで、20-30年もかかる作業です。

今は、2011年事故を自ら体験し、事故を起こしたことに対して責任を感じている世代が作業に従事していますが、やがて、いつかは引退します。

いずれ、2011年事故を経験しなかった世代だけが、廃炉作業の指揮を執ることになります。

そうなった近い将来において、

・廃炉作業に従事するスタッフのモチベーションを如何にして確保するか。

・優秀な人材を如何にして確保するか。

が重要な課題になると思いました。

 

余談ですが、私の小中学生時代の友人で、東工大から東京電力に入った人がおります。事故後に福島第一原発に転勤したものの、メンタル的に耐えられなくて配置転換を願い出た、という話を聞きました。

「会社が命じる人事に異を唱えることが、自分のキャリアにどういう意味をもたらすかは重々承知の上だが、どうしても耐えられなかった」
と言っていました。

 

 

福島第一原子力発電所の廃炉のスケジュール

公表されている廃炉ロードマップは、大雑把なものですが、これは、研究し試行錯誤しながら進めていく作業であるため、明確なスケジュールを設定できないためです。

上記webサイト内では、

第2期 燃料デブリ取り出しが開始されるまで ~2021年12月

となっていますが、実際には、2024年7月現在、燃料デブリ取り出しはまだ始まっていません。これから試験的な取り出し作業が始まるところです。

 

燃料デブリとは、核燃料、制御棒、その他の設備類などが溶融して、冷えて固まったものです。形はバラバラだし、放射線量も高いので、取り出す作業は極めて困難です。

 

尚、チェルノブイリでは、燃料デブリの取り出しは、行いませんでした。

コンクリート製の壁で覆い尽くして封じ込める、という手段を取りました。
(つまり、根本的な解決ではない、と言える)

 

スリーマイル島では、炉心溶融したものの、燃料デブリは取り出しやすい規模・形状だったようで、事故から十数年程度で燃料デブリ取り出し作業が完了しております。

 

 

福島第一原子力発電所の施設内へ入る

施設内は一切写真撮影禁止です。

以下の写真は、全て、私が撮影したものではなく、自民党青年局視察団の事務局が公式に撮影したものです。

 

 

原子力施設のため、セキュリティは極めて厳重です。
事故を起こしたから、廃炉作業を行っているからという理由ではなく、原子力施設とはそもそもセキュリティは厳しいものです。

IAEAによる査察は、大規模なものは年に2回の頻度で受けているとのことでした。

 

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機。

水素爆発が起こりました。

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機は、建屋の壁は壊れ、鉄骨もひしゃげています。

 

202407 福島第一原子力発電所

右下に固まっているのは、ガレキです。

ガレキを撤去せずに放置したままとしている理由は、ガレキを撤去しようとすると、放射性ダストが飛散するからです。

 

今後、全体をすっぽり覆い尽くすカバー建屋を設け、飛散防止をした上で作業を進めていくことになります。

 

202407 福島第一原子力発電所

左が2号機。
2号機は水素爆発に至りませんでしたので、壁が原型をとどめています。水色地に不規則な点々の模様が入っているのは、オリジナルのデザインです。

中央の、円筒形の物体が載っているのが、3号機。

その右が4号機。

 

202407 福島第一原子力発電所

2号機と3号機の前で記念撮影。

 

原子炉建屋から80mの位置に見学台が設けられており、防護服無しでここまで行くことが出来ます。

 

全員が、個人線量計を装着しています。

男性は、貸与されたベストの胸ポケットに収納します。
女性は、お腹あたりのポケットに収納します。

これらの性別は、自認しているジェンダーではなく、生物学的ジェンダーを指します。
女性の場合は、子宮が最も被爆の影響を受けやすいから、というのが理由とのことです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この位置での放射線量は、59.2マイクロSV(シーベルト)毎時でした。
1時間ここにいるとどのくらい被爆するかを示す数値です。

1m(ミリ)=1,000μ(マイクロ)ですので、0.0592ミリSV毎時と同じです。

 

 

ツアーが終わって本部棟に戻った時、私が装着していた個人線量計が示した被ばく量は、

・ガンマ線 0.01 ミリSV
・ベータ線 0.0 ミリSV(検出せず)

でした。

これは、ツアーの時間内に私が被爆した累積値を示します。

この数字は、おおむね、歯のレントゲン撮影1回分の被曝量です。
尚、胸部レントゲン撮影の場合は、もっと被曝量は大きく、1回当たり0.05~0.1ミリSVくらいです。

 

 

処理水のタンク

202407 福島第一原子力発電所

202407 福島第一原子力発電所

処理水のタンクの形状・色は、様々なものがあります。

メーカ純正仕様をそのまま使っているためであって、形状・色の違いによって使い方が異なるわけではない、とのことです。

 

 

ALPS処理水

ALPS処理とは、プロセスの名称です。

 

ALPS処理プロセスに投入する前の「汚染水」は、パイプの赤錆が混ざっているため赤茶けた色なのだそうです。

これを、ALPS処理を通すことによって、トリチウム以外の放射性物質を、適切な基準値以下に除去したものが、いわゆる「ALPS処理水」です。

トリチウムだけは除去する方法がないために、残ってしまうわけですね。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水。

なお、取り除いた、トリチウム以外の放射性物質については、最終的に処分する方法は未定とのことでした。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水を沖合いに放出するための配管は、このようなドリルで海底の地盤を掘削してトンネルを通しました。

ただパイプを海底に置くだけ、という方法もあり得ましたが、長期的に安定した作業が行えるようにと、トンネルを掘ったそうです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この沖合いから、ALPS処理水を海洋放出しています。

 

202407 福島第一原子力発電所

質問する私。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク

自民党青年局の被災地巡りツアーは、自民党宮城県連のアレンジにより、県立多賀城高校へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

この高校には、大震災を契機に、災害対策の人材を養成するための災害科学科という学科が設けられています。

「災害対策の人材」といっても、パッと思いつく進路は、消防士、自衛官、公務員、といったところですが、卒業後の進路は、進学する生徒が多いようです。

そもそも「災害科学」という学問領域が確立されているわけでもなく、高校レベルで災害科学教育といっても、教える側も試行錯誤といったところなのではないかと思います。在校生の皆様におかれましては、将来再び起こり得る災害にの被害を軽減するべく有為な人材となられることを期待します。

 

 

グループワーク

夏休みにも関わらず多くの生徒が学校に集まってくれました。
7,8人のグループに分かれてグループワークを行いました。

なかなか面白い試みであります。

 

一般的には、初等教育・中等教育の教育機関、特に公立の学校は、政党のイベントに参加したり、政党とタイアップした企画を行うことには、基本的には及び腰であるものです。

私達、自民党青年局とのタイアップしてのグループワークの機会を設けてくださった多賀城高校の先生方、生徒さんたちには感謝申し上げます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループワークの様子。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループごとのディスカッションの成果物を発表しているところ。
(フルモザイク化したので、この写真では何が何だか分かりませんね)

左端の青いビブを着ているのが私です。

 

 

グループごとに、

高校生が、
・防災に関して現状の課題を一つ
・その課題に対する、自分なりの解決策のタタキ台案

を提示し、タタキ台を皆でもみもみ話し合ってブラッシュアップし、発表する、というものでした。

 

私達のグループでは、冒頭、高校生の一人より、

・課題:災害の伝承が、うまく行われていない
・解決策のタタキ台案:国が伝承館を造って運営する

と提示し、これを元にディスカッションを行いました。

 

「おっと!いきなり、国にやってくれ!って国頼みかよ!」

と私は驚愕してしまいました。

 

 

「伝承がうまくいっていない」これは分かります。

年月が経つにつれて、記憶も危機感も薄れていくのは、世の常です。

だからこそ、何とかしなくてはならない、危機感を醸成し、教訓を継承していかなくてはならない、という課題認識は、どこの地方自治体・地方議会でも共通して抱えているものです。

件の高校生は、「現状うまくいっていないのだから、国がやればいい!」とシンプルに考えてしまったようです。

 

「自助 – 共助 – 公助」のうち、公助を当てにしてはいけない、行政は頼りにならないし、頼ってはいけない、自分たちのことは自分たちで何とかするしか無い、あなたの家族を守れるのはあなただけなのだ、というのが、日頃、私が蕨市内の防災系のイベントなどでスピーチする機会がある度に口を酸っぱくして言っている話です。

今回の自民党青年局のツアーで訪れた一連の被災地、伝承館の類でも、最もぐっと胸に迫る思いがしたのは、家族や仲間を失いつつ、かろうじて生き残った被災体験者の方の生の体験談でした。お金をかけて作ったムービーや展示物ではありませんでした。

国がお金をかけて大々的なハコモノを作って運営するよりも、その土地の人達が頑張って、自分たちで考えて、生の体験談を話し聞かせる機会をたくさん作った方がいい、というのが、参加した地方議員の概ね共通の感覚なのですが、高校生たちとは根本的にずれているようでした。

 

私は、国に頼ってはダメだ、その土地の地元の人達が自分たちで頑張るしかないんだ、と強く話をしたのですが、高校生たちにどの程度伝わったか、ちょっと心もとなく感じます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

最後に皆で記念撮影。

いやはや、高校生の生の感覚を知ることが出来たのは、とても有意義でありました。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問