九州戦跡巡り(2)

九州戦跡巡り(1)の続き。

砂蒸し風呂で汗を絞り、開聞岳をグルっと回ったところでたまたま見つけた公園。

 

花瀬望比公園

開聞岳と花瀬望比公園

開聞岳の上の方は曇っている。 「望比」は、フィリピン島を望むの意で、彼の地で戦った英霊を慰めるための公園だ。 開聞岳の周りの原生林の中のような道を走り抜けて、突然広くて小綺麗な公園に出くわしたのでびっくりした。

比島慰霊碑 

比島戦没者慰霊碑。
石碑の上の鉄兜は、現地から持ってきたリアル遺品らしい。

 

知覧特攻平和会館と万世特攻平和祈念館

特攻基地としては、知覧が圧倒的に有名だけど、実は、南九州全域に小さな航空基地がたくさんあったようだ。戦争末期、本土といえど制空権確保もままならない状況で、敵方からの基地爆撃を受けた際の被害最小化のために、効率が悪くとも敢えて分散化を図ったのではないかと思う。

知覧は、訪れるのは2度目だった。
午後過ぎから降り出した雨のせいで、びちょ濡れのカッパを着ながら写真を撮るのがめんどくさく、写真なし。

万世特攻平和祈念館

こちらは、万世基地の跡にあるミュージアム。 特攻基地としての稼働期間は、戦争末期のわずか数ヶ月に過ぎなかったようで規模も小さい。隊員の遺品が展示物の中心だ。 御霊と遺族のプライバシー保護のために、遺品は写真撮影禁止になっている。 雨が降っていると、バイク乗りはカッパを着ていてもびちょびちょで、本当にいろいろなものがめんどくさい。カッパのまま飲食店に入ってメシ食うことは出来ないし、いちいち靴を脱いでカッパを脱ぐのもめんどくさい。コンビニも気を使う。 そんなわけで、この日はランチを食べそびれてしまった。 基本的に全キャンプ泊だったが、雨のために日和ってこの日だけは川内市内のビジホに投宿。  

天草の三和商船フェリー 蔵之元港

翌朝は、気持よく晴れ上がった。

天草半島へと渡る、三和商船フェリー。
蔵之元港から乗る。

このフェリーが到着するのは、牛窪港というところだが、なんと!ここに軍艦長良記念館というものがあったらしい。全然知らなかった!
たまたま後から地図を見て発見したものの、一瞬、3時間くらい掛けて戻ろうかとも思ったが、まあ諦めた。
軽巡洋艦長良は、天草沖で米潜水艦の雷撃を受けて沈んでいる。

 

天草

天草というと、僕には、からゆきさんを出した貧しい土地、というイメージがある。おそらく土は痩せて何も育たず、魚も穫れないような荒涼とした土地なんだろう、と思っていた。だからこそ、当時としては迫害されたマイナー宗教だったキリスト教が普及したんだろう、と。

山崎朋子, 『サンダカン八番娼館』

以前、日本に帰ってきたからゆきさんのおばあさんを取材したこの本を読んだことがあって、どんなところなのかと、この本に出てくる土地を見て回りたいと思っていた。

崎津天主堂

崎津天主堂。 崎津の集落にある、キリスト教会。今は観光地となっている。本の中では、たしか、この地域でもっとも大きい集落というような説明だったと思う。  

崎津の漁港

澄んだ、キレイな漁港。
崎津の家々

立派な瓦屋根の家。 赤貧洗うが如しといったようなイメージとは程遠い。  

軍浦の神社(お大師様?)

お隣りの軍浦の神社。
本の中で、元からゆきさんのおばあさんが、時々、延々と歩いてお参りに来るという「軍浦のお大師様」というのは、ここのことかと思う。なんの変哲もない、普通の地の神社ですな。

ということで、天草では、貧しい土地というイメージは皆無だった。

まあ、資源の再配分がうまくいって、日本全国、人々の暮らしが高いレベルで均質化したわけだから、当然といえば当然だ。

天草ロザリオ館のマリア様

天草ロザリオ館の泥人形。 中国の人形っぽいような感じだけど、要するにこれは、マリア様なのだ。信仰を隠すために、敢えて国籍不明な変な感じに作っているのだ。

この博物館では、隠れキリシタンがいかに規制を受けつつも信仰を守り抜いたか、ということが解説されてある。 鎖国が始まってからは伝道師も全て帰ってしまい、口伝で信仰を伝えていくしかなかった。そのため、お祈りの言葉は、意味不明の(まさに)念仏のようになってしまっていたのだという。僕も般若心経を前から1/3だけ覚えているが、意味は殆ど理解しておらず、音として覚えているだけだ。隠れキリシタンのお祈りの文句も同じ。 このような状況では、コピーを重ねるごとに情報は劣化してしまうはずで、鎖国から250年以上経つうちに、中身は相当変わってしまったのではないか。 そう言えば、仏教だって、インドの仏教と、中国の仏教と、日本の仏教はまるで違う別物だもんね。インドのパゴダの敷地内に建っているストゥーパが、お墓の卒塔婆(ソトバ)のオリジンだと聞いたときは、子供の伝言ゲームどころではない、その情報の劣化具合に驚愕した。

そして、大分へ。  

円形分水

円形分水。

円形分水は、男のロマンだよね~。

高千穂峡

高千穂峡。 神々しい。  

天岩戸神社

天岩戸神社。

ここのご神体は、天岩戸伝説のその岩戸。実際に見ることが出来る。

神社の人に聞いたら、なんと、岩戸伝説って、神武天皇の5代前の話らしい。
日本民族は、人類史上唯一、建国以来、ただ一つの王朝しか戴いてこなかったわけだが、神武建国以前の日本の社会がどんな感じだったのかなんて、想像しがたい。
尚、神社は、詳しい記録はないものの、鎌倉時代に開かれたらしい。

 

回天大神訓練基地

九州最後の夜は、別府の近くの糸ヶ浜というところに張ったのだが、この近くに、偶然にも、回天の訓練基地跡があった。

かなり広大な敷地面積を有する基地で、元々は、海軍工廠を造るつもりで買収していた土地だったそうだ。

大神回天訓練基地_回天実物大模型

回天実物大模型。

93式酸素魚雷を改造して造ったものなので、形は魚雷そのものだ。

大神回天訓練基地_魚雷調停池

その横にある、魚雷調定プール。ここから先の写真は全て本物。  

大神回天訓練基地_壕 

酸素圧縮ポンプ室壕。

基地敷地内には、壕が至るところ掘り巡らされている。

大神回天訓練基地_壕のコンクリート製作業台

中から。

素掘りのまま。
真ん中にあるのは、コンクリート製の作業台。

大神回天訓練基地_回天保管壕

回天貯蔵壕の入り口。

大神回天訓練基地_回天保管壕   

回天貯蔵壕の中。 遠くに明かりが見えるが、向こう側に通じている。 反対側には、普通の民家があり、倉庫として(おそらく勝手に)使っていた。

大神回天訓練基地_壕

別の壕。

大神回天訓練基地_本部跡   

本部跡。 今はみかん畑。何も残っていない。                 中津城

中津城。

黒官が好きなので、縁の地はだいたい訪れたが、中津だけは行ったことがなかった。
最近観光地でよくある、ボランティアガイドのおじいさんに1対1で案内してもらい、満足。

 

 

築城基地近くの稲童掩体壕

稲童掩体壕

ここも、幹線道路の流れに乗って走っていたら眠くなり、眠気を払うために脇道に入ったら、たまたま見つけた。

空襲から航空機を守るための掩体壕。

でかいし、頑丈そう。

終わり。


九州戦跡巡り(1)

今年の夏休みは、直前にならないと休みの日程がなかなかfix出来なかった。
休みが決まった時には、直前過ぎてエアはどこも高いし、北海道行きフェリーは、さんふらわあだいせつの火災で便が取りづらく、九州に走りに行くことにした。

主たるテーマは戦跡と温泉巡り、ちゃんぽんを食べること。

そんなわけで、直前に予定が決まったので、ほとんど下調べしていなかった。
しかし、ある種の情報を求めていると、具体的にこちらから探し当てなくても、情報の方からこちら側に飛び込んで来ることがままある。
今回は、そんな偶然が幾つも重なったりした。

大阪南港のさんふらわあきりしま

東名で大阪へ、大阪南港から志布志行きのさんふらわあきりしま。
マイクチェックだ、おらぁ!

志布志には、JCの活動をしていたときの仲間がいる。
せっかくなのでちょっと立ち寄って行くべきところだが、不義理をして通過してしまった。
しかし、その後、僕のFBの投稿を見たその仲間から、今どこにいるん、おいでよ?と連絡を受けた。仲間とはありがたいものでありますな。

内之浦

志布志は初めてだが、大きな港。
街は小さいけど。
港には大きな倉庫やサイロが立ち並んでいた。

走りだすやいなや、フェリーの中で出したはずなのに猛烈な便意を催し、道端の公衆トイレへ駆け込んだ。

すると、

 

内之浦砲台跡

内之浦砲台跡

米軍による志布志湾上陸に備えて陸軍の工兵部隊が造った砲台跡だそうだ。 結局、使われることはなかったみたいだ。 便意を催していなかったら、知らずに通り過ぎているところだった。      

南大隅町の、薩英戦争当時の薩摩藩の台場跡

薩英戦争の台場跡 

これも、ハラヘッタからどこかで何か食べたいなーと思いつつ、きょろきょろしながら走っていたら、偶然見つけた。

石垣は長い距離に渡って残っているようだが、このようにいかにも砲を置くような形で残っているのはココだけらしい。

薩英戦争の台場跡

砲はさすがに左右に稼働して角度を調整出来るような仕組みだったのだろうと思うけど、こんな狭い範囲にしか向けられないのだったら、なかなか撃つチャンスなんてないんじゃないかな?

海軍鹿屋航空基地

海軍鹿屋航空基地

ここは前から行きたかったところ。初めて訪れた。 現役の海上自衛隊の基地であり、一般の人も好きに出入りできる史料館がある。

海軍鹿屋航空基地の二式大艇

こ、これは・・・もしかして、二式大艇ちゃんかも!

海軍鹿屋航空基地の二式大艇

現存するただ一機の二式大艇らしい。

海軍鹿屋航空基地の二式大艇

かっこいいなー。 こうしてみると、飛行艇というものは、この時代にほとんど形が完成してしまっていることが分かる。 大東亜戦争時代の戦闘機と、現代の戦闘機を比べたら、まるで別物のように姿形が異なるが、現代の飛行艇は、二式大艇と(素人目には)ほとんど同じような形をしているように見える。

秋津洲の模型

館内に展示してあった水上機母艦秋津洲の模型。
こうやって二式大艇ちゃんを積んでいたんですな。
これは戦闘力も防御力も無さそうだ。
尚、正しくは秋津州ではなく、秋津洲であります。

広瀬中佐の書

日露戦争における旅順港閉塞作戦の英雄、広瀬武夫中佐の書。

比叡の主錨

比叡の主錨。
ひえー。
しかし、何故ソロモンで沈んだ比叡の主錨がここにあるのかは不明。
レプリカでは無さそうだが、偽物の可能性もある?よく分からない。

桜島フェリー

桜島フェリーで薩摩半島へ。

その2に続く。


ペリリュー行幸啓

ペリリュー行幸啓をとても嬉しく思います。

産経 2015/4/9 : 「英霊たちが喜ぶ姿、はっきり見える」両陛下ご慰霊に立ち会った戦友

祖国を護るためにペリリューで戦った英霊に感謝申し上げます。
再び皇国興廃の大事があれば、私もまたペリリューの先輩方の後に続いて戦う覚悟であります。

2011年10月、硫黄島にて、行幸啓記念碑。


2011年10月、硫黄島の摺鉢山から、米軍が揚陸してきた海岸を望む。

ペリリューは行ったことありませんが、近々行ってみたいと思います。


東京大空襲から70年

Yahoo! ニュース : 東京大空襲から70年…法要に遺族ら参列

70年前の昭和20年3月10日に東京大空襲があり、10万人がお亡くなりになりました。
犠牲者の無念を思い、心からお悔やみ申し上げます。

昨夜は、スポクラでトレッドミルを転がしながらテレビジョンを見ていたら、中央線の旅客列車に米軍の戦闘機が機銃掃射をした湯の花トンネル列車銃撃事件のドラマをやっていた。

米軍機による鉄道等民間施設への機銃掃射の映像は、ガンカメラで撮ったものがけっこう残っているらしい。

そう言えば、私の母親は昭和20年7月30日生まれで、17日間だけの戦争経験者なのだが、昔、亡き祖母から、
空襲の時に赤子(うちの母)を抱いて逃げ遅れ、機銃掃射を浴びたことがある。「お助けください~」と唱えながらしゃがみこんで震えていたら、止めてくれた。
みたいな話を聞いたことがある。ガキの頃にいいかげんに聞いていた話なので、記憶違いがあるかもしれないが、当時、母方の家族は王子に住んでいたはずなので、

wikipedia : 東京大空襲#1945年8月

このページを調べてみると、
1945年8月3日、杉並区、滝野川区、王子区、板橋区空襲。死者2人。
1945年8月10日、板橋区、王子区、滝野川区、足立区、西多摩郡霞村、多西村空襲。死者195人。

というのがあるので、このどちらかの日の話かもしれない。

 

東京大空襲10万人、広島14万人、長崎7万人。
これらは、もちろん戦時国際法違反で、米国による、人類史上最大規模の極悪非道な民間人の大量虐殺である。
しかも、米国は、これらを反省しておらず、「戦争を早く終わらせるためにやった」などと、自己正当化を図っている。

 

私がベトナムを初めて訪れたのは大学3年のときで、1996年だが、当時は、サイゴン市内の戦争証跡博物館に、母体が枯葉剤を浴びて奇形となってしまった胎児のホルマリン漬けが展示してあった。
(以来、たびたびサイゴンには行っているが、最近は展示しなくなったみたいだ。)


2004年、サイゴンの戦争証跡博物館にて。
ベトコンが生け捕った米軍機。
私は共産主義を心から憎むものだが、ベトナム人はリスペクトする。彼らは米国と戦って勝った民族だからな。


かの有名な、カメラマン沢田教一氏による、ピュリツァー賞を受賞した写真『安全への逃避』を用いたポスター。


子供が描いたポスター。
ということで、戦跡博物館には何度となく行ったことあるけど、あまりそれっぽい写真は撮っておりませんでした。

米国は、必要があると思えば、躊躇うことなう国際法を踏みにじって●●●の●●●●を行う国である。

これらは、決して過去の話ではない。

 

昨今は、ピンポイント爆撃が可能なスマート兵器が主流となったので、戦術核などの大量破壊兵器を用いる戦術的価値がなくなってきたが、米国のメンタリティは依然として変わっていないはず。

 

我が国は、憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使が可能となった。今後、同盟国である米国と肩を並べて、国内のみならず海外においても、共通の敵と戦う可能性が出てくる訳だが、このような米国のメンタリティについては心に留めておく必要があると思う。


蕨市戦没者追悼式

2014年10月22日(水)、蕨市民会館において、蕨市戦没者追悼式が行われました。
大東亜戦争において亡くなった、蕨市出身の皇軍将兵、軍属、民間人の霊を慰めるためのイベントです。私は、斎戒沐浴して式典に参加致しました。

今日の、私達日本人が平和と繁栄を謳歌していられるのは、多くの偉大な先人が命を捧げて国をお護りくださったおかげであります。
私達現役世代もまた、この国の平和と繁栄を、命懸けで護り、次の世代に引き継いでいく責任があります。

英霊に感謝申し上げるとともに、再び郷土と祖国に危機があれば、私もまた英霊の皆様の後に続いて戦い、靖国に参る覚悟を新たに致しました。


式典でご挨拶する比企孝司 蕨市議会議長(保守系会派:新生会)


献花するご参加者

 

尚、この蕨市戦没者追悼式という式典は、現在の蕨市においては、2年に1回の頻度で開催されています。
理由は、予算の都合と、蕨市遺族会のメンバの高齢化と会員数減少のため、ということです。

誕生日を祝ったり、命日に冥福を祈ったりするのは、普通は、毎年やるものであって、2年毎にやるものではありません。

郷土と祖国を護るために国に命を捧げた英霊を追悼することは、最も重要な政事であって、最高度のプライオリティを置くべきものです。また、たとえ将来、遺族会の人数が減少してゼロになったとしても、蕨市が存続する限り続けるべきものです。私は、このイベントの毎年開催を求めております。

hoya_t blog 2012/4/2 : 蕨市議会 3月定例会 一般質問 その3 戦没者追悼事業の実施状況と毎年開催要望


日米の戦没者遺骨帰還事業

産経 2014/9/30 : 「第2のトモダチ作戦!」 遺骨帰還へ日米共同作業 戦後70年に向け米側が打診

日米それぞれの戦没者ご遺骨帰還事業の担当部署が、それぞれの仕事を協力してやっていきましょうという、という検討を始めた、という記事。

そもそも今まで何で協力してなかったの?っちゅう話で、今まで日米双方で別々に重複して行っていた作業が、一回で済むようになれば効率もいいし、諸事情から我が国がアプローチしにくい戦地に対しても米国のコネクションを使えばアプローチ出来るようになる可能性もある。
「第2のトモダチ作戦」という見出しは、大げさ過ぎる。ご遺骨帰還の作業は、地味な作業の繰り返しだ。

 

大東亜戦争で斃れた皇軍将兵、軍属、民間人は、
海外・内地合わせて310万柱
海外のみで240万柱、その内、ご遺骨が内地にご帰還されたのは125万柱
つまり、115万柱が未だ海外に残されまま。115万柱の内、30万柱は海の底。

ご遺骨帰還事業は、厚生労働省が担当している。

国のために戦い、死してなお靖国の鬼として国をお護りくださっている英霊のご遺骨をできるだけ早く内地のご遺族の元にお返ししたいというのは、当然の願いだが、すごい膨大な数だし、当然お金もかかるし、海の底に沈んだ分なんて事実上無理だし、硫黄島なんかはご遺骨の上に滑走路作っちゃってるし、簡単に「国はもっと戦没者遺骨帰還事業に力を入れろ!」と言えるものでもない。

あと100年かかっても、1000年かかっても、日本国が存在する限り続けなくてはならないと思う。

 

日米のご遺骨帰還事業の人員体制の違い

冒頭紹介した記事の中でもさらっと触れられているが、これだけは気に留めておいた方がいい。

日本国
未帰還者:115万柱
担当部署:厚生労働省で、40人体制

米国
未帰還者:World War 2全体で73,000人。朝鮮戦争で8,100人。他にベトナム戦争などの分も対象。
担当部署:米軍の統合戦時捕虜行方不明者調査隊(Joint POW/MIA accounting command = JPAC)で、400人体制。

POW(捕虜)、MIA(行動中の行方不明者)と呼んでいるので、おそらく米国の考え方では、ご遺骨が見つかるまでは戦没者認定はしてはならない、ということなのだろう。


2011年10月、硫黄島の大阪山砲台近くの壕。

「厚生省処理済」というのは、遺骨帰還を担う厚生労働省が、その仕事を完了した壕である印としてつけたもの。逆に言うと、この印がない多くの他の壕はすべて、まだ調査していないということだと思う。


朝日新聞が従軍慰安婦記事が虚偽だと認める。

2014年8月5-6日にかけて、朝日新聞が、紙上において、いわゆる従軍慰安婦問題について特集を組み、これを報じた自らの記事が虚偽であることを認めた。

朝日新聞:慰安婦問題を考える

■読者のみなさまへ
吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。

 

 

軍と行動をともにする職業的売春婦はいたが、軍の強制によるものではなく、自らの意志あるいは、親に売られて/女衒に騙されてその職に就いた人達であり、これは、いわゆる従軍慰安婦なるものではない。

hoya_t blog : 2012/9/12 「いわゆる従軍慰安婦問題なるものは存在しない!」と皆で声を上げよう。

 

吉田清治氏が「軍が従軍慰安婦の強制連行を行った」と証言し、これを元に朝日新聞記者:植村隆氏が、朝日新聞紙上に従軍慰安婦のレポート記事を書いた。
朝日新聞の検証によると、そもそもの発端である吉田清治氏の証言に裏付けがなく、虚偽であることが今さらながら分かったのだという。
・吉田清治氏がどのような意図でこのような証言をしたのか?
また、
・朝日新聞記者:植村隆氏が、本当に偽証を信じ込んで記事を書いてしまったのか?
・何らかの意図をもって問題を捏造する記事を書いたのか?
・記事を捏造したのであれば記者個人の意思によるものなのか?朝日新聞の組織的な意志によるものだったのか?
朝日新聞の検証はそこまでは踏み込んで調べていない。

 

この朝日新聞の「誤報」あるいは「捏造」は、私達の父祖の名誉は傷つけられ、日韓関係は悪化し、我が国の国益を大いに損ねた。

朝日の赤い連中は、どうやってこの責任を取るつもりなのだろうか?
ハラを切って欲しい。
文字通り自害しろという意味ではない。
新聞記者なんだから、せめて筆を折って廃業して欲しい。

 

次なる課題:河野談話の修正

1993年、自民党宮沢喜一内閣の官房長官:河野洋平氏(リタイア済み)が、河野談話を発表した。
内容については若干曖昧な表現もあるが、国際的には、事実上、日本国政府がいわゆる従軍慰安婦問題を認めたものと認識されている。

日本国政府としての検証も行わず、(おそらく)独断でこのような国益を害する発言を為した経緯と理由については、今ひとつ明らかになっていない。

自民党/安倍政権としては、是非とも、河野談話の経緯と目的をはっきり検証して、これを撤回し、私達の父祖の名誉と国益を回復して欲しい。

河野洋平氏がどのような意図で河野談話を発表したのかは分からないが、売国奴との誹りを免れないだろう。既にリタイアしているとはいえ、政治家なんだから、自ら責任を取って欲しい。


2012年5月、ソウル市内の日本大使館前の「従軍慰安婦」像