神話以前と神話以降

かねてより、共和制国家の連中は野蛮だな~、と思っていた。
例えば、フランスなんかは、フランス革命において、自分たちの王様をギロチンで処刑してしまった訳で、万世一系の皇室を戴く日本人からすると、想像を絶する。歴史への畏怖とか、昔から連綿と続いてきたモノに対する敬意のようなものがないんだろう。歴史とか昔から続いてきたモノについて思いを巡らすことが出来ないということは、人ではなく畜生と一緒であって、野蛮以外の何物でもない。自分たちの歴史を大切に出来ない連中には、他人の歴史に敬意を払うことも出来ないし、それは、非寛容な態度を生むことになる。と、以前は考えていた。


アグラーのタージマハルに行った。
左右対称の白い大理石の建築物は有名で、ここは、外から侵略してきたムスリム国家であるムガル王朝時代の皇后様のお墓なのだが、インド人は、このお墓を観光資源として活用し、見世物にしているわけだ。外から侵略してきて、イスラム教というインドの中ではマイナー宗教をベースにしていて、しかも遥か昔に絶えた王朝とはいえ、かつての王族のお墓を見世物にするという発想は、やはり日本人には理解しがたい。そしてここに観光にやってくるインド人たちも、このお墓に眠るかつてのムガル王朝の皇后様に敬意を払って頭を下げるでもなく、きゃっきゃと喜びながら記念撮影に興じている。一見してムスリムと分かる服装のインド人にしても同じで、呆然とした。


デリーのフマユーン廟。
ここも、ムガル王朝時代の王様のお墓で、ムスリムっぽいインド人のツーリストもいるのだが、死者に敬意を払うわけでもなく、みな記念撮影に余念がない。

インドも共和制国家だから野蛮なんだな~と最初は思っていたのだが、よくよく考えてみると、もしかすると「共和制国家の連中は野蛮」というのは、間違っているののかも、と思えてきた。

「人は、建国の神話以前の時代には敬意を払えない」というのが本質かも。

我が国の建国の神話は、660年B.C.に神武天皇がご即位遊ばされた時からスタートしている。我が国の歴史では、この年から皇紀のカウントがスタートするし、即位した日である2月11日は、今でも紀元節としてお祝いをしている。実際に660年B.C.に即位したかというと多分作り話なのだが、私たちの神話の上ではそういうことになっている。当然、神武以降は尊崇の対象となっている。
逆に、神武以前すなわち神話以前の縄文、弥生時代の日本人は、私たちにとっては血が繋がっている先祖であるにも関わらず、敬意を払う対象にはなっていない。縄文遺跡とかを訪れても、それは学問的興味関心の対象にとどまり、首を垂れて敬意を払うことはしないし、発掘して出てきた骨を博物館に飾って見世物にしたりする。

イギリスの植民地だったインドは、1947年に独立したわけだけど、彼らの建国の神話はこの時に始まったわけだ。1947年以前=神話以前の時代ということになるわけで、現代のインド人がムガル王朝時代の王族の墓を見るときの感覚は、私たち日本人が縄文人の墓を見るときと同じような感覚なのだ。

正月にインド旅行してきて、こんなことを考えました。


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