フランス雑誌社に対するイスラム原理主義者によるテロ事件

先日、フランスの雑誌『シャルリー・エブド』(Charlie Hebdo)に掲載された、預言者ムハンマドを茶化した風刺画に怒ったイスラム原理主義グループにより、雑誌社の編集部が襲撃されるテロ事件がありました。
犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。

さて、この事件は、幾つかのフレームワークで捉えることができると思いますが、ちょっと私なりに考えたことをつらつらと書いてみたいと思います。

そもそもイスラム教が「暴力的で、教義的にテロリズムを推奨している」という見方はもちろん間違いであろうと思います。

フランス国内の貧困層、特に、旧植民地諸国からの移民2世、3世に対する差別問題、失業問題などが根底にあります。彼らは、フランスの中ではマイノリティであり、言葉はフランス語を流暢に話すものの、名前はイスラム風伝統的なフランス人の名前とは異なり、顔貌も明らかにマジョリティのフランス人とは異なるし、宗教もイスラム教を信仰しており、様々な形で社会的に差別を受けております。
このような被差別社会集団は、潜在的に、歴史的にみると、違法な暴力集団に吸収されることがよくあります。
例えば、我が国であれば、いわゆる不良とかヤンキーや、在日コリアンが、暴力団・ヤクザにリクルーティングされています。
現在のフランスでは、イスラム原理主義グループが、そのような被差別社会集団の吸収母体として機能している、という見方が出来ると思います。フランスの暴力団・マフィア事情がどうなっているのかは知りませんが、日本のヤクザ・暴力団のように「下積みは辛いけど、出世すればけっこうお金稼げるし、女にももてるし、ウハウハ」みたいな(実態はともかくとして)イメージの組織が存在するのであれば、テロリストたちは、イスラム原理主義グループではなく、暴力団・マフィアに吸収されていたかもしれません。

このような問題は、旧植民地国からの移民を大量に受け入れている欧州の旧インペリアリズム各国では、多かれ少なかれどこの国にでもあるはずで、更に言うと、我が国にも同種の問題が存在しています。

イスラム教が「暴力的である」というのは間違いなのですが、一神教が「他者に対して不寛容であり」、教義的に原理主義を生みやすい、ということは言えるかもしれません。
イスラム教が原理主義を生んだのと同様に、同じく一神教であるキリスト教やユダヤ教からも原理主義は生まれる可能性があります。他方で、多神教である仏教、神道、ヒンズー教などは、他者に対して寛容であり、「こういう見方もあるけど、ああいう見方もあるよね」という余裕があり、「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」という懐疑が常に根底にあるため、教義的に、原理主義は存在し得ません。
一神教の世界観における神は、間違いを犯さないパーフェクトな存在です。多神教の世界観における神は、酔って神同士で喧嘩をしたり、人間にイタズラをしたりすることもあります。

今回の事件で感じたのは、フランス流エスプリなるものの傲慢さです。
言論は自由なんだから何を言っても許される、風刺は文化であって、誰もが風刺されることを受け入れなくてはならない、という考え方には強く違和感を覚えます。

フランス流エスプリ・風刺も、これはこれで一つのの歴史的に定着した文化なんだから、それはそれで尊重されるべきだという考え方もあります。
しかしながら、政治信条でも宗教でもちょっとした生活習慣でも、他者が信じているものを批判することは自由であるべきですが、その根底には相手に対するリスペクトがあるべきだと思います。
他者を茶化して嗤う、フランス流エスプリ・風刺からは、相手に対するリスペクトが感じられません。
相手が嫌がることを何故やるのか?
私はとても「Je suis Charlie」などと呟く気にはなれません。

宗教をタブー視することによって引き起こされてしまったのがオウム事件であり、宗教をタブー視してはならない、というのはもっともです。
オウム真理教のような暴力的・排他的なカルト宗教をタブー視せず、適切なタイミングで社会的・法的に制裁を加えておけば、オウム事件は起こらなかったかもしれません。

法的にはともかく、社会的には、伝統宗教と新興・カルト宗教は、異なる位置付けを与えられるべきだと思います。
分類は難しいところですが、その場の状況に応じて、その時代の知識人が知性を総動員して判断するしかないと思います。


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