東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問

令和5年(2023年)11月18日(土)、別エントリで述べたように、日台友好議連にて日台友好サミットin仙台に参加してきたのですが、これと日程を合わせて、閖上を訪問してきました。

東日本大震災の被災地は、数年おきに訪れて、復興・衰退の様子や、街並みの変化を定点観測するようにしています。

 

 

ガキの頃に仙台市富沢という、わずか数キロのところに住んでいたこともあります。

名取川で遊んでいたので、その河口の閖上には親しみがあります。

閖上という地域は、基本的には漁業メインでした。

仙台市中心部まで通勤することも距離・時間的には可能ですが、通勤する人がわざわざ住居を構えるような場所ではなく、「出ていく人はいても、入ってくる人はいない」といった感じの地域です。

震災前は、住宅が密集して立ち並び、後背に水田が位置していました。

住宅街は、ほぼ全域が津波の被害を被り、犠牲者も多数出ています。

 

 

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旧市街の中心に位置する、名取市東日本大震災慰霊碑へ。

公園となっており、中央に慰霊碑が立っています。

この慰霊碑が立つ、海と貞山堀の間の中洲エリアは、震災前は人家が密集した住宅街でした。

 

 

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今は、この中洲状の地域一帯は、居住用の戸建住宅・集合住宅を建設し、住むことは禁止となっているとのことです。

 

このレギュレーションは、市レベルで定めたものです。

 

元々、この地域に土地を持って居住していた方からは、土地は県が買い上げたそうです。

 

今は戸建て住宅・集合住宅は1軒もありません。

 

倉庫、工場、店舗などがポツポツと立ち並んでいます。

どうやら水産加工業の誘致に力を入れているようで、関連業界の倉庫・工場がたくさんありました。

 

今はまだポツポツと建物が建つばかりでかなり広い空き地が広がっているように見えますが、既にけっこう土地は売れているらしい、とのこと。

(このあたりの話は、現地で口頭で被災経験者の方から聞いたものです。ちょっと説明の仕方が曖昧だった上に、裏取りしていないので、情報が間違っている可能性あり)

 

 

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旧 閖上小学校前歩道橋の鉄骨が、震災遺構として公園に保存展示されています。

この歩道橋の上に登って、津波を逃れた方々もいたとのことです。

 

 

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名取川沿いに建つ、名取市震災復興伝承館

水防倉庫としての機能も果たしているようでした。

 

 

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子どもたちが作った、震災前の閖上の模型。

民家の一軒一軒には、「〇△さん」と居住者のお名前の旗がさしてあります。

 

 

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閖上は、1960年 チリ地震津波において、「津波が来るぞ!」と避難したものの、実際には被害がなかったどころか、潮位はまったく変化無しだった、という経験があるそうです。

そのため、閖上のお年寄りたちは、「今回も、津波は来ないだろう」と高をくくって、逃げなかった人が多かったとのこと。

 

 

また、地震直後、防災広報無線が使えなかったことも、被害を大きくしたようです。

私が話を聞いた被災者の方は、

「防災無線は元々壊れていたのかもしれないし、停電によって利用不能になったのかもしれないし、原因は分からない。消防団が津波から逃げるように呼びかけて回ったけど、逃げずに津波に飲み込まれた人が多かった。消防団員も何人もお亡くなりになった」と言っていました。

 

 

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震災後、土地区画整理事業によって新しく街路築造されたエリア。

盛り土されています。

震災後、区画整理事業の完成までには7年間かかったそうです。
(それでも、蕨市の錦町土地区画整理事業と比べれば、驚異的な速いスピードですけどね)

 

元々、このエリアに土地を持って住んでいた人は、減歩されたそうです。

居住禁止となったエリアに土地を持って住んでいた人は、
・このエリアに土地を賃貸して家屋新築するか、
・街を出ていくか、

という選択を迫られたそうです。

 

家のローンを抱えたまま被災し、被災後に更に新築することで、二重ローンを抱えている人もいるし、おまとめローンを組んだ人もいる、とのこと。

財政上の支援はなかった、とのことでした。

 

 

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災害公営住宅。

 

地元の方曰く、高齢者が多いとのことでした。

私が話を聞いた方は、「被災して、家を新たに立てる資力も気力もないお年寄りが、終の棲家としてあそこに引っ越した人が多い」と言っていました。

 

 

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閖上港へ。

これはなんだろう?

google mapにも掲載されていないので、なんだか分からない。
港の監視施設?

 

 

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閖上港にある、「閖上の記憶」。

旧 閖上中学校の被災生徒のご遺族が立ち上げて運営している、伝承館です。

 

 

このエントリで「被災者から聞いた話」と書いた内容は、こちらのガイドの方からお聞きしたものです。

このガイドの女性は、お子さんが当時中学生で(今は社会人とのこと)、被災後、一時的に、名取市が用意した仮設住宅に住んでいたそうです。

仮設住宅は、名取市愛島台という、内陸の新興住宅街に用意されました。

交通の便が悪く、名取駅まで9km、バスで34分かかります。

お子さんの高校への進学を考え、閖上を出て、仙台市内に引っ越す、という決断をしたそうです。

 

 

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こちらは、2011年 東日本大震災とは無関係です。

 

昭和8年(1933年)昭和三陸津波において、津波がここまで遡上してきた、という事実を後世の住人に伝え、注意を促すことを目的とした石碑です。

 

 

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石碑に書かれた銘文。

4本建てられたそうですが、現存するのはこの1本だけです。

 

 

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名取川の堤防の外側斜面に、突き刺さっていました。

 

 

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閖上から、東部復興道路を通って、名取川を渡り、仙台市藤塚地区へ。

 

津波で破壊された墓石。

 

 

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藤塚地区の名取川堤防上に盛り土をして設けられた、避難の丘。

 

海沿いに延々とサイクリングロードが設けられており、気持ちのいいコースとなっています。チャリダーがたくさん走っていました。

 

 

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仙台の市街地に移動して、地下鉄東西線 荒井駅の駅舎内に設けられたせんだい3.11メモリアル交流館を見学しました。

こちらは、パネル・写真展示が中心です。

 

 

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これはとてもいい写真ですね。勇気づけられます。


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