蕨市総合防災演習がございました

先日、令和6年(2024年)11月17日(日)、南小学校におきまして、蕨市総合防災演習がございました。

蕨市、蕨市消防本部、蕨市消防団、市内全地域の自主防災団体(町会など)に加えて、陸上自衛隊第32普通科連隊、埼玉県警、NTT東日本・東京ガス・市内の水道工事業者などのインフラ事業者が参加しました。

以前は毎年夏に開催しておりましたが、暑くてたまらないので、この時期に変更したものです。

開催場所は、毎年市内各地を巡回しております。

 

20241117 蕨市総合防災演習

オープニングは、消火器を用いての消火訓練。

WSS(蕨サポーティングスチューデンツ。市内中学校有志による自主防災団体です)、町会有志、ボーイスカウトが練習用ダミー消火器を用いて消化する訓練を行いました。

上記写真では、ホースから放出されているのは水ですが、これは、練習用ダミー消火器だからです。本物の消火器であれば、消火剤の泡が放出されます。

 

消火器の使い方なんて、たいして複雑なものではないし、何なら、本体に使い方の解説もあります。

しかしながら、いざ火災が発生した時に、焦らず慌てずに操作するためには、日頃から繰り返し訓練をしておくことが大切です。

 

20241117 蕨市総合防災演習

蕨市消防本部の消防士による、はしご車を用いての火災現場からの救出訓練。

建物で火災が発生して、屋上に逃げ遅れた人が取り残されてしまった、という想定です。

一点のムダもない華麗な動きには見惚れてしまいます。

蕨市消防本部の皆様の、市民の安心と安全を守るための活動に感謝申し上げます。

 

20241117 蕨市総合防災演習

ドローン事業者による、ドローンを用いた現場撮影デモ。

このドローンは、チャイナのDJI社製でした。

 

ところで、令和6年度より、埼玉県では、災害現場の上空緊急観測の実証実験を行っております。

本年2月の予算特別委員会にて、私は、産業用ドローン市場においてチャイナメーカのシェアが高いこと、中共の国内法によってチャイナ企業は共産党政府に対して、これらのデータの提供義務を負うこと、諸外国では政府機関がチャイナ製デバイス・アプリの使用を禁止している例が多いことを指摘しました。その上で、災害現場をチャイナ製ドローンで撮影することは、ドローンによって収集される映像と位置情報によって、被害の状況、道路交通ネットワーク上、脆弱な位置の地理的な情報、自衛隊、消防、警察、消防団等の民間団体の活動状況、装備、練度、士気の高さ、相互連携状況といった情報が中共政府に筒抜けになってしまう可能性は否定できず、安全保障上の懸念があると指摘しました。

あわせて、県においては、チャイナ製ドローンの使用を禁ずる内規を設けるべきだと主張したところです。

 

20241117 蕨市総合防災演習

ドローンによる空撮映像。

最近はもはや珍しくなくなりましたね。

 

20241117 蕨市総合防災演習

火災現場の煙体験コーナ。

ダミーの煙なのですが、甘い香りがします。

 

20241117 蕨市総合防災演習

スタンドパイプによる消火訓練。

スタンドパイプとは、街中の消火栓にホースを繋いで、消火活動のための放水ができる装置のことです。

プロの消防士が使うものとはことなり水圧が低いようで、素人でも使えるようになっています。

とはいえ、やはり日頃から訓練を繰り返しておかないと、いざ火災が発生した時に迅速に使いこなすのは大変でしょう。

 

20241117 蕨市総合防災演習

陸上自衛隊第32普通科連隊のメガクルーザの運転席に乗させてもらいました。

このクルマ、いいな~。

しかし、燃費悪そうだし、デカ過ぎて運転はしにくそうです。車両の左前の先端は、よく見えません。シートは安っぽいシンプルな造りで、長時間乗るとお尻が痛くなりそうです。

 

20241117 蕨市総合防災演習

市内物流業者による、物資運搬訓練です。

この他、各インフラ事業者が、それぞれの専門分野の訓練デモを行いました。

 

20241117 蕨市総合防災演習

締めは、消防団による消火訓練。

 

20241117 蕨市総合防災演習

消防団員が一斉に校舎に向かって放水を行いました。

 

関係者の皆様、お疲れ様でした。


能登半島豪雨被災者支援募金、ご協力ありがとうございました。

自民党蕨支部にて、先日、令和6年(2024年)9月25日(水)、蕨駅東西口におきまして、このたびの能登半島豪雨災害における被災者支援募金活動を行いました。

20240925 自民党蕨支部 能登半島豪雨災害被災者支援募金

元日に地震に被災した能登半島では、まだ復興は半ばです。

 

このたびの豪雨災害は、復興の途上にある能登半島を再び襲いました。
震災で家を失い、仮設住宅に住む方々のその住宅をの多くが、浸水致しました。

本日付けの報道によると、死者数は11人に上るとのことです。

まさに「踏んだり蹴ったり」といった状況です。

 

20240925 自民党蕨支部 能登半島豪雨災害被災者支援募金

わずか1時間ほどの募金活動で、79,673円の浄財をお寄せいただきました。
日本赤十字社を通じて、被災地にお送り致します。
募金してくださった皆様、ありがとうございました。


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

自民党青年局の被災地巡りツアーは、最後の目的地である中間貯蔵施設へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設 ←この記事

 

202407 中間貯蔵施設

中間貯蔵工事情報センターという、広報センターにて、まず最初に説明をお聞きする。

 

 

中間貯蔵施設の名称・場所・広さ

環境省が運営しています。

これは、施設の固有名詞です。
一箇所しか存在しません。あちこちに何箇所もあるわけではありません。

中間貯蔵施設の地図

環境省:中間貯蔵施設情報サイトより。

 

福島第一原子力発電所を囲むように、半ドーナツ状の地帯に設けられています。

広さは1,600haで、かなり広大な面積です。

 

 

中間貯蔵施設の目的

除染した土壌、放射性廃棄物を、焼却して減容化(コンパクトにする)して、埋め立てる、一時的な仮置き場です。

 

「中間」は、何に対して中間なのか?というと、あくまでも一時的な仮置き場であり、最終置き場ではない、という、プロセス・スケジュール上、中間であることを示しています。

福島第一原子力発電所からの物理的な距離が、中距離である、という意味ではありません。

 

 

では、最終処分は、いつ、どうするのか?

未定です。

 

中間貯蔵施設の役割については、中間貯蔵・環境安全事業株式会社法という法律に明記されています。

この法律においては、中間貯蔵施設における仮置きは、中間貯蔵プロセスが開始された2015年から30年後の2045年3月までである、と定められています。

国は、2045年3月までに、最終処分する(最終置き場を決定し、運搬を完了する)義務を負っています。

 

しかしながら、現時点では、最終置き場の場所も、運搬プロセス、最終処分方法も決まっていません。

 

2045年というと、今から21年後です。

言わば、次の世代に最終処分を先送りした、という言い方も出来ます。

 

 

青森県むつ市の中間貯蔵施設との違い

むつ市にも中間貯蔵施設という名称の施設があるのすが、これは名前は同じでも、役割は全く異なるものです。

むつ市の中間貯蔵施設は、全国の原子力発電所で発生した使用済み核燃料を、再処理工場での再処理プロセスに回すまでの、一時的な仮置き場です。

 

 

中間貯蔵施設内の写真レポート

バスで見て回りました。

202407 中間貯蔵施設

放射性ガレキでしょうか。

この後、焼却して減容化(コンパクト化)することになるのだと思います。

 

202407 中間貯蔵施設

 

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

敷地は広大なもので、国が土地を買収しています。

取り壊されずに残っている民家もあります。

 

202407 中間貯蔵施設

 

202407 中間貯蔵施設

広大な敷地内には、倒壊したままの建物も多数、放置されています。

 

202407 中間貯蔵施設

敷地内のサンライトおおくま見晴台より、福島第一原子力発電所を望む。

一号機から四号機までがよく見えます。

 

サンライトおおくまは、この場所のすぐ近くに建ってた特養老人ホームの名称です。google mapによると、未だに建物は放置されているようです。

 

202407 中間貯蔵施設

この場所の放射線量は、1.3マイクロSV(シーベルト)毎時でした。

 

202407 中間貯蔵施設

埋立地。

私達が立っている場所です。減容化(コンパクト化)した除染土壌、放射性廃棄物を埋めた後、被爆していない土をかぶせています。

将来の最終処分のプロセスにおいては、これらを掘り起こして、最終処分場に運搬することになります。

 

 

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

この地点の放射線量は、0.296マイクロSV(シーベルト)毎時でした。

 

この被災地視察シリーズは、以上です。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所

自民党青年局の被災地巡りの最終日は、廃炉作業が進む東京電力 福島第一原子力発電所へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

個人で申請して中に入れる場所ではないので、個人的には、最も楽しみにしていた訪問地がここでした。

 

 

富岡町~大熊町の様子

以下は、国道6号沿い、バスから眺めた街の様子です。

202407 富岡町~大熊町

帰還困難区域においては、建物の解体作業が順次進められています。

写真奥の家は、ツタが屋根の上にまで伸びて家に覆いかぶさるように成長しています。

 

202407 富岡町~大熊町

ケーズデンキ双葉富岡店

2011/3/11直後の新規オープン予定だったとのことで、一度も営業したことがない店舗です。

一応、取り壊しは行わず、草刈りなどのメンテナンスはしているようです。

 

 

地図と照らし合わせてみると、ここは、特定復興再生拠点区域です。

当初、帰還困難区域として指定されたものの、政策的に除染やインフラ整備などを集中的に進めた結果、住民の帰還・居住が可能になったエリアです。

 

政策的に選択され除染した地域であり、元々の放射線量が少なかった地域ということではありません。

富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村の6町村のうち、それぞれの町村の中心エリアが、特定復興再生拠点区域に選択されています。

 

202407 富岡町~大熊町

建物は取り壊され、塀のみが残っています。

 

202407 富岡町~大熊町

パチンコ屋。

 

202407 富岡町~大熊町

ここは一面の水田だったとのことですが、今は、草が生えたままの荒れ地となっています。

 

202407 富岡町~大熊町

特定復興再生拠点区域では、人が住み始めています。

震災後に建てられた新しいアパートかな?

 

 

福島第一原子力発電所で働く人たち

廃炉作業に従事する、東京電力及び関係会社のスタッフの皆様に感謝申し上げます。

 

現在、東京電力の社員1,000人、関係会社3,000人、合計4,000人のスタッフが廃炉作業を行っています。

 

後述のように、まだこれから廃炉完了まで、20-30年もかかる作業です。

今は、2011年事故を自ら体験し、事故を起こしたことに対して責任を感じている世代が作業に従事していますが、やがて、いつかは引退します。

いずれ、2011年事故を経験しなかった世代だけが、廃炉作業の指揮を執ることになります。

そうなった近い将来において、

・廃炉作業に従事するスタッフのモチベーションを如何にして確保するか。

・優秀な人材を如何にして確保するか。

が重要な課題になると思いました。

 

余談ですが、私の小中学生時代の友人で、東工大から東京電力に入った人がおります。事故後に福島第一原発に転勤したものの、メンタル的に耐えられなくて配置転換を願い出た、という話を聞きました。

「会社が命じる人事に異を唱えることが、自分のキャリアにどういう意味をもたらすかは重々承知の上だが、どうしても耐えられなかった」
と言っていました。

 

 

福島第一原子力発電所の廃炉のスケジュール

公表されている廃炉ロードマップは、大雑把なものですが、これは、研究し試行錯誤しながら進めていく作業であるため、明確なスケジュールを設定できないためです。

上記webサイト内では、

第2期 燃料デブリ取り出しが開始されるまで ~2021年12月

となっていますが、実際には、2024年7月現在、燃料デブリ取り出しはまだ始まっていません。これから試験的な取り出し作業が始まるところです。

 

燃料デブリとは、核燃料、制御棒、その他の設備類などが溶融して、冷えて固まったものです。形はバラバラだし、放射線量も高いので、取り出す作業は極めて困難です。

 

尚、チェルノブイリでは、燃料デブリの取り出しは、行いませんでした。

コンクリート製の壁で覆い尽くして封じ込める、という手段を取りました。
(つまり、根本的な解決ではない、と言える)

 

スリーマイル島では、炉心溶融したものの、燃料デブリは取り出しやすい規模・形状だったようで、事故から十数年程度で燃料デブリ取り出し作業が完了しております。

 

 

福島第一原子力発電所の施設内へ入る

施設内は一切写真撮影禁止です。

以下の写真は、全て、私が撮影したものではなく、自民党青年局視察団の事務局が公式に撮影したものです。

 

 

原子力施設のため、セキュリティは極めて厳重です。
事故を起こしたから、廃炉作業を行っているからという理由ではなく、原子力施設とはそもそもセキュリティは厳しいものです。

IAEAによる査察は、大規模なものは年に2回の頻度で受けているとのことでした。

 

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機。

水素爆発が起こりました。

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機は、建屋の壁は壊れ、鉄骨もひしゃげています。

 

202407 福島第一原子力発電所

右下に固まっているのは、ガレキです。

ガレキを撤去せずに放置したままとしている理由は、ガレキを撤去しようとすると、放射性ダストが飛散するからです。

 

今後、全体をすっぽり覆い尽くすカバー建屋を設け、飛散防止をした上で作業を進めていくことになります。

 

202407 福島第一原子力発電所

左が2号機。
2号機は水素爆発に至りませんでしたので、壁が原型をとどめています。水色地に不規則な点々の模様が入っているのは、オリジナルのデザインです。

中央の、円筒形の物体が載っているのが、3号機。

その右が4号機。

 

202407 福島第一原子力発電所

2号機と3号機の前で記念撮影。

 

原子炉建屋から80mの位置に見学台が設けられており、防護服無しでここまで行くことが出来ます。

 

全員が、個人線量計を装着しています。

男性は、貸与されたベストの胸ポケットに収納します。
女性は、お腹あたりのポケットに収納します。

これらの性別は、自認しているジェンダーではなく、生物学的ジェンダーを指します。
女性の場合は、子宮が最も被爆の影響を受けやすいから、というのが理由とのことです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この位置での放射線量は、59.2マイクロSV(シーベルト)毎時でした。
1時間ここにいるとどのくらい被爆するかを示す数値です。

1m(ミリ)=1,000μ(マイクロ)ですので、0.0592ミリSV毎時と同じです。

 

 

ツアーが終わって本部棟に戻った時、私が装着していた個人線量計が示した被ばく量は、

・ガンマ線 0.01 ミリSV
・ベータ線 0.0 ミリSV(検出せず)

でした。

これは、ツアーの時間内に私が被爆した累積値を示します。

この数字は、おおむね、歯のレントゲン撮影1回分の被曝量です。
尚、胸部レントゲン撮影の場合は、もっと被曝量は大きく、1回当たり0.05~0.1ミリSVくらいです。

 

 

処理水のタンク

202407 福島第一原子力発電所

202407 福島第一原子力発電所

処理水のタンクの形状・色は、様々なものがあります。

メーカ純正仕様をそのまま使っているためであって、形状・色の違いによって使い方が異なるわけではない、とのことです。

 

 

ALPS処理水

ALPS処理とは、プロセスの名称です。

 

ALPS処理プロセスに投入する前の「汚染水」は、パイプの赤錆が混ざっているため赤茶けた色なのだそうです。

これを、ALPS処理を通すことによって、トリチウム以外の放射性物質を、適切な基準値以下に除去したものが、いわゆる「ALPS処理水」です。

トリチウムだけは除去する方法がないために、残ってしまうわけですね。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水。

なお、取り除いた、トリチウム以外の放射性物質については、最終的に処分する方法は未定とのことでした。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水を沖合いに放出するための配管は、このようなドリルで海底の地盤を掘削してトンネルを通しました。

ただパイプを海底に置くだけ、という方法もあり得ましたが、長期的に安定した作業が行えるようにと、トンネルを掘ったそうです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この沖合いから、ALPS処理水を海洋放出しています。

 

202407 福島第一原子力発電所

質問する私。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
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2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク

自民党青年局の被災地巡りツアーは、自民党宮城県連のアレンジにより、県立多賀城高校へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

この高校には、大震災を契機に、災害対策の人材を養成するための災害科学科という学科が設けられています。

「災害対策の人材」といっても、パッと思いつく進路は、消防士、自衛官、公務員、といったところですが、卒業後の進路は、進学する生徒が多いようです。

そもそも「災害科学」という学問領域が確立されているわけでもなく、高校レベルで災害科学教育といっても、教える側も試行錯誤といったところなのではないかと思います。在校生の皆様におかれましては、将来再び起こり得る災害にの被害を軽減するべく有為な人材となられることを期待します。

 

 

グループワーク

夏休みにも関わらず多くの生徒が学校に集まってくれました。
7,8人のグループに分かれてグループワークを行いました。

なかなか面白い試みであります。

 

一般的には、初等教育・中等教育の教育機関、特に公立の学校は、政党のイベントに参加したり、政党とタイアップした企画を行うことには、基本的には及び腰であるものです。

私達、自民党青年局とのタイアップしてのグループワークの機会を設けてくださった多賀城高校の先生方、生徒さんたちには感謝申し上げます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループワークの様子。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループごとのディスカッションの成果物を発表しているところ。
(フルモザイク化したので、この写真では何が何だか分かりませんね)

左端の青いビブを着ているのが私です。

 

 

グループごとに、

高校生が、
・防災に関して現状の課題を一つ
・その課題に対する、自分なりの解決策のタタキ台案

を提示し、タタキ台を皆でもみもみ話し合ってブラッシュアップし、発表する、というものでした。

 

私達のグループでは、冒頭、高校生の一人より、

・課題:災害の伝承が、うまく行われていない
・解決策のタタキ台案:国が伝承館を造って運営する

と提示し、これを元にディスカッションを行いました。

 

「おっと!いきなり、国にやってくれ!って国頼みかよ!」

と私は驚愕してしまいました。

 

 

「伝承がうまくいっていない」これは分かります。

年月が経つにつれて、記憶も危機感も薄れていくのは、世の常です。

だからこそ、何とかしなくてはならない、危機感を醸成し、教訓を継承していかなくてはならない、という課題認識は、どこの地方自治体・地方議会でも共通して抱えているものです。

件の高校生は、「現状うまくいっていないのだから、国がやればいい!」とシンプルに考えてしまったようです。

 

「自助 – 共助 – 公助」のうち、公助を当てにしてはいけない、行政は頼りにならないし、頼ってはいけない、自分たちのことは自分たちで何とかするしか無い、あなたの家族を守れるのはあなただけなのだ、というのが、日頃、私が蕨市内の防災系のイベントなどでスピーチする機会がある度に口を酸っぱくして言っている話です。

今回の自民党青年局のツアーで訪れた一連の被災地、伝承館の類でも、最もぐっと胸に迫る思いがしたのは、家族や仲間を失いつつ、かろうじて生き残った被災体験者の方の生の体験談でした。お金をかけて作ったムービーや展示物ではありませんでした。

国がお金をかけて大々的なハコモノを作って運営するよりも、その土地の人達が頑張って、自分たちで考えて、生の体験談を話し聞かせる機会をたくさん作った方がいい、というのが、参加した地方議員の概ね共通の感覚なのですが、高校生たちとは根本的にずれているようでした。

 

私は、国に頼ってはダメだ、その土地の地元の人達が自分たちで頑張るしかないんだ、と強く話をしたのですが、高校生たちにどの程度伝わったか、ちょっと心もとなく感じます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

最後に皆で記念撮影。

いやはや、高校生の生の感覚を知ることが出来たのは、とても有意義でありました。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎

自民党青年局の被災地巡り、南三陸町へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

台湾の支援によって再建された南三陸病院

202407 南三陸病院

南三陸町の南三陸病院(90床)の建物。

右側で青色のビブを着て、眩しそうに手庇をかざしているのが私ですね。

 

この病院は、津波に被災した公立 志津川病院の後継です。

公立志津川病院2012年4月の公立志津川病院(122床)。

5階建ての建物は、4階まで津波に襲われ、多くの医療職、入院患者がお亡くなりになりました。

 

202407 南三陸病院

公立志津川病院は、台湾赤十字から支援をいただき、南三陸病院として再建されました。

同志国である台湾の方々の支援への感謝の記念碑が建てられています。

 

202407 南三陸病院

南三陸町長からお話を伺う。

 

202407 南三陸病院

石碑を囲んでみんなで記念撮影。

 

 

南三陸の伝承館 南三陸311メモリアル

202407 南三陸311メモリアル

元 南三陸町の行政パーソンだった館長からご説明いただきました。

 

202407 南三陸311メモリアル

マニュアル通り、訓練通りに行動すれば、人は正常化バイアスによって安心する。

でも、それはただの安心に過ぎない。安全であることは示していない。

東日本大震災では、想定を越えた被害が発生した。
マニュアル通り、訓練通りでは助からなかった。

その場の状況に応じた臨機応変な対応が必要だった。

安心と安全は違うんだ!

 

というご説明は、確かに納得できるものでした。

 

南三陸311メモリアルのラーニング・プログラム

動画を見た後、あなたなら選択肢Aか選択肢Bか、どう行動しますか?
周りの人とディスカッションしてみましょう!

という参加型コンテンツがあります。

 

例えば、

「あなたは、落ち着いて行動して高台の安全な場所に避難することが出来ました。しかし、スマホを自宅に置いてきてしまったことに気が付きました。さあ、取りに帰りますか?諦めますか?」

といった具合いです。

どちらが正解かは、誰でも分かります。

でも、正解通りに、あなたは行動出来ますか?

ついつい、ささっと行って帰ってくれば大丈夫だろう!避難生活がどのくらい長期化するか分からないから、スマホは大事だしね!と考えてしまうのではないですか?

スマホを取りに帰るか、スマホを諦めて安全な場所に留まるかを選択してそれぞれを示すカードを掲げた後、周りの人と話し合ってみよう。

と、いうものです。

 

 

これはよく出来た素晴らしいプログラムです。

若い方々に受講してもらいたいですね。

 

 

震災遺構 南三陸町の旧防災庁舎

202407 震災遺構 南三陸町 旧防災庁舎

3階建ての南三陸町防災庁舎は、屋上まで津波をかぶりました。

この庁舎の中と、屋上で、多くの町職員が被災し、お亡くなりになっています。

 

 

どこの震災遺構も事情は同じなのですが、後世の子孫に対する警告として保存して残すべきだという意見と、家族・友人が亡くなった辛い記憶の場所だから解体して欲しいという遺族の意見とが折り合えるはずもなく、激論になっています。

この防災庁舎も、解体するか、震災遺構として残すか、南三陸町の方針は二転三転しましたが、最終的には残すことになりました。

 

今は、周囲はきれいな公園として整備されています。

 

 

南三陸町の沿岸部

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

志津川港。

 

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

港の周辺の街区。

 

道路はきれいにまっすぐに築造されています。

しかし、空き地が多く、雑草が生い茂っています。

 

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

飲食店、海産物の工場、小売店、コンビニなどが戻ってきましたが、せっかくきれいに整備した新しい区画整理した町並みは、未だに空き地が目立ちます。

 

これは、復興したと言えるのだろうか?

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

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2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校

自民党青年局の被災地巡りツアーは、翌日、石巻市の旧 大川小学校へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
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2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

犠牲者に献花して黙祷を捧げました

この小学校では、当時の児童78人中、70名が死亡、4名が行方不明という、大惨事が出来しました。

被災を免れた4人の児童は、保護者がやって来て強引に連れ帰って避難したために助かりました。

地震発生後、津波がやってくるまでに高台に逃げる十分な時間はあったのですが、それを行わなかったことによる人災、という側面があります。

尚、学校の教職員11人のうち、10人の方もお亡くなりになっています。
(生き残った1人の方は、心を病んでしまったとのことです)

 

202407 震災遺構 大川小学校

献花して黙祷を捧げました。

2列目の青いビブを着ているのが私ですね。

 

202407 震災遺構 大川小学校

斎藤正美 石巻市長よりお話を伺う。

 

202407 震災遺構 大川小学校

大川小学校の全景。

モダンな平屋建ての建物でした。

 

202407 震災遺構 大川小学校

震災遺構として整備されて保存されています。

 

202407 震災遺構 大川小学校

教室。

 

202407 震災遺構 大川小学校

卒業制作の壁画が残っています。

 

202407 震災遺構 大川小学校

名古屋から来た学生たちが鎮魂の植樹をしていました。

 

 

なぜ、高台に避難しなかったのか?

被災児童の遺族が、「なぜ、高台に避難しなかったのか?」真相を明らかにすることを求めて石巻市と宮城県を相手に血みどろの民事訴訟を起こしています。

最高裁まで争い、2019年、学校側の過失が認定された上で、損害賠償が市と県に命じられ、原告側の勝訴が確定しています。

 

 

震災遺構、伝承館は、石巻市の学芸員の方が思いを込めてデザインしたそうです。

この学芸員の方に、「裁判が終わり、遺族の方々の心の中のわだかまりは溶けたのですか?」と訪ねてみました。

言い淀んでおられましたが、回答は否でした。
行政パーソンとしては、ここまでが話せる限界です。

たまたまそばにいた市長が、高台に避難しなかった理由の真相を語ってくれました。

裁判では語られなかった、表には出せない歴史であり、私も、ここに書くことは出来ません。

しかしながら、後世へ残すべき教訓として、30年後くらいに何らかの形で発表してほしいと思います。

 

202407 震災遺構 大川小学校

校庭と裏山。

 

202407 震災遺構 大川小学校

敷地内に建つ伝承館にて。

津波の時に止まった掛け時計。

 

202407 震災遺構 大川小学校

橋の右岸のたもとに大川小学校があります。

周囲は人家が密集していました。

今は、人家は一軒もありません。

 

 

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