蕨市にはもちろん茶畑はまったく無いのですが、実は、お茶は、埼玉県の名産なのです。
入間市、狭山市、所沢市辺りに茶畑が集積しており、狭山茶ブランドは広く確立しています。
品種改良、栽培・製茶の技術開発・普及指導のために、埼玉県では、茶業研究所があります。
しかも、そろそろ開業100年を迎えます。そんなに昔から、埼玉県ではお茶の研究を行っていたんですね。
こんな研究機関があるなんて知りませんでした。
このたび、埼玉県議会の狭山茶振興議員連盟にて、茶業研究所の見学に行って参りました。
茶業研究所。
圏央道入間ICの近く。
蕨からは、外環 – 関越 – 圏央道を乗り継いで、クルマで一時間強くらいです。
この辺りは、一面が茶畑です。
なお、茶の木は、苗木を植えてから成長して、茶葉が収穫できるようになるまでに、8年かかるとのこと。
上記写真の中で、手前の畝が、1年目です。
成長した後は、毎年2回収穫できます。
4~50年経って、徐々に収量が減ってきたら植え替えます。
狭山茶の歴史
鎌倉時代
禅宗の僧 栄西によって我が国に伝えられました。
江戸時代
この地域で広く生産されていたわけではなく、寺の敷地内で、薬のような用途で作られていた程度だったとのことです。
明治時代
米国に輸出するための農業産品として、この地域で生産が始まったそうです。
横浜港から出荷して、一時は輸出品として隆盛を極めたのですが、間もなく、米国への輸出は廃れてしまいました。
理由は不明ですが、米国人の嗜好の変化が背景にあるのかな?
今日においては、米国人が日本茶を好んで飲むようなイメージはありませんが、明治時代はよく飲まれたようですね。
大正時代以降
我が国の庶民が日常的にお茶を口にするようになったのは、大正時代以降のようですね。
この頃から、狭山茶は内需向けに生産するようになりました。
今
日本人の日本茶消費量は減っている。
全国茶生産団体連合会のこちらのwebページを見ると、平成21年(2009年)ころを境に、減少トレンドにあります。
紅茶の消費量は横ばいトレンドですが、烏龍茶の消費量も同じように平成21年ころから減少トレンドです。
平成21年というと、リーマンショックがあった年ですが、この頃にいったい何があったのでしょうか?
入間、狭山、所沢周辺に茶業が集積した理由
この地域の土壌が、水はけが良さ過ぎて、稲作に向いていなかったため。
畝ごとに異なる品種が植えられています。
昔の茶畑の畝は、上辺が緩やかなカーブを描く「かまぼこ型」でした。
今は、コンバインのような、人が乗り込むタイプの収穫マシンで収穫作業を行うのに最適化するため、上辺は直線となっていることが多いようです。
茶の品種改良
地球環境の変化によって温暖化が進んでいるわけですが、気候変化に対応した品種を開発することも、この茶業研究所のミッションの一つです。
お茶は嗜好品なので、時代によって求められる品種は変わってくるが、普遍的な要素は、
・たくさん収穫できること。
・寒さに強いこと。
もしゃもしゃに枝が生えているのが、品種改良のための母樹。
この木から種子をとって、品種改良の研究を行います。
種子採取の段階から、品種登録まで、一つの品種を開発するのに、35年以上かかるそうです。
こんなに長い期間だと、一人の研究者が、自らのキャリアの中で最初から最後まで手掛けることは出来ません。
昔の先輩研究者が採取してくれた種子を引き継いで研究し、また、今日採取した種子は、これから入所してくる未来の研究者に引き継いでいく、のだそうです。
ロマンティックですね。
説明を聞いているところ。
研究所施設ロビーの展示物。
かなり古い建物です。
ほうじ茶の品評をしているところ。
お茶は、香り、味だけではなく、見た目、色も重要な要素です。
自然光を取り入れてお茶の品評ができるようになっています。
明治時代に米国向けに輸出して頃のパッケージ。
ほうじ茶。