東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田

南三陸、気仙沼と通り抜け、陸前高田へ。

2012年4月(2年前)の南三陸の記録は、こちら
気仙沼~陸前高田の記録は、こちら

 

南三陸。

ここは、何もなかった。
2年前はガレキだらけだったが、それらはことごとく撤去されていたものの、復興へ向けた動きは伺えなかった。街としての復興プランが決まっていないのだろうか。


2014年4月
幹線道路は、復興工事のためのダンプが引っ切り無しに走り回っていた。
とても埃っぽい。
至るところに、工事のためのプレハブの現場事務所が設置されている。
膨大な復興のための土木系予算が投入されている。

 

気仙沼市内へ。

 


2012年4月 気仙沼警察署 南町交番

2012年4月 左が株式会社小野良組 本社ビル(被害なし)、右が消防署(被害あり、使われていなかった)


2014年4月
写真の道路右側(佐川急便トラックの後ろの更地部分)が、交番跡地。交番の建物は解体されている。
道路左側の、株式会社小野良組 本社ビルの奥の消防署は、解体されていた。

 

気仙沼市内 男山酒造

2012年4月


2014年4月
元々、国登録有形文化財の建物のため、改修をする模様。

 

気仙沼市内の建物

2012年4月


2014年4月
市街地の建物は、解体済みのものもあれば、崩れたまま放置されているものもあった。
何らかの意図があって放置されているのかどうかは不明。
そこかしこに空き地がある。

 

気仙沼では唐桑の宿で、いろいろ現地の人や、ボランティアとして滞在してそのまま居着いてしまった人や、2年長期滞在しているという集団移転コンサルの方などに話を伺う機会があった。

基本的に、観光で来てもらうのは、現地の人としては歓迎だとのこと。
「物見遊山の気分で、被災地に行くのは、被災者に失礼ではないか?」とも思ってしまうが、全然そんなことはなくて、むしろ忘れ去られてしまうのが嫌だし、興味関心を持ち続けてくれる方がありがたいし、旅行してちょっとでもお金を落としてくれればそれがありがたい、とのこと。

気仙沼は、漁業についてはかなり支援は手厚いのだが、それ以外の産業に対する支援が薄く、濃淡あるようだ。
特に厳しいのが、食料品店、飲食業、燃油業などの、地元密着の商売をやっていて、直接被災したわけではない人達らしい。直接被災していないので支援はなく、人口が減っているゆえに商売が厳しい、とのこと。

震災後、東京などに働きに出ていて、地元のために何かやりたいと居ても立ってもいられずに家族を連れて地元に帰って来たものの、ジョブがなくて結局地元で生活を組み立てられず、仙台辺りに再び引っ越してしまうような若者が多いそうだ。

海辺の集落では、古い家(本家)ほど海に家が近く、新しい家(次男以下の分家)ほど海から離れた山の方に建っているものなのだそうだ。
一つの集落の中で、家の場所によって被害があったところとなかったところで別れてしまった場合、コミュニティの中で意識の分断が起こってしまっているケースが多い、とのこと。
仮設住宅に集落ごと仮移転した場合も、元のような形でコミュニティを維持するのはなかなか難しいようだ。
これらの集落コミュニティは、年百年以上かけて自然に出来上がったものだが、絶妙なバランスの上に成り立っているものであって、思いのほか脆く、壊れるときは本当に一瞬だ。

街によって、復興のプランニングのスピード感も違うし、内容も異なるとのこと。
唐桑の宿のおやじは、宮城県はコンセンサス重視で遅く、岩手県はスピード重視だ、と県民性を分析していた。政治家のリーダーシップによるのかもしれない。
後述のように、陸前高田はガンガン復興が進んでいる。気仙沼、石巻などは遅い。僕が感じた印象だが、雄勝のように街自体をかつて住んでいた人が放棄してしまったような街もある。

集団移転コンサルの方は、集落全体の権利関係の調整をしたり、役所との折衝をしたり、というのが仕事なのだそうだ。集落住民全員の合意を取らなくてはならないので調整は大変だが、都会の再開発と違ってヤクザは出てこない点は楽だ、と苦労話を語ってくれた。
小さな集落の中には、老人ばかり5人しか住んでいないような限界集落もあり、せっかく多額のお金をかけて集団移転したところで、10年も経てば住む人が誰もいなくなってしまう、というようなところもあるらしい。
そういう集落を残すことに意味があるのだろうか?という内容のことを言っていた。
都市工学上のコンパクトシティ的な発想で、限界集落を束ねて、効率的に、一箇所に集約するというのも一つのやり方であろう。他方で、「出来るだけ元通りに復興する」というのが、日本国民全体の意志でもある。

 

陸前高田へ。

 

見渡す限り大型の建物以外は何も残っていない無い中で営業していた、仮設ガソリンスタンド

2012年4月

このガソリンスタンドは、2014年4月もこのままだった。

 

キャピタルホテル1000

2012年4月
海沿いにあり、被害を受けた建物。

2014年4月、この建物は解体されていた。
ホテルそのものは、高台に移転して営業を再開している。

唐桑の宿のおやじが、「陸前高田は最も復興が進んでいる、まるで空中都市だ」と言っていた通り、まさにそんな感じに変貌を遂げていた。

 


2014年4月
陸前高田の高台から、海沿いの平野部に長い大型のベルトコンベアが張り巡らされている。
これは、高台から土を持って来て、平野部に盛り土するためのものらしい。
ダンプでちょっとずつ運ぶよりも、この方が効率がいい、ということなのだろうが、本来は常設して使うような設備のはずなので、盛り土の規模がどれほど大きいものか、ということが分かる。

 


2014年4月
大型クレーンがあちこちで稼働している。

 


2014年4月
海沿いの、道の駅。
震災遺構として残してあるようだ。

 


2014年4月
道の駅の中。
散乱したままになっている。

 


2014年4月
道の駅の駐車場に設置された、追悼施設。

この種のものや、小さな追悼の祭壇のようなものは、そこかしこで見かけた。

 


2014年4月
奇跡の一本松。
最上部に設けられた避雷針がシュールだ。
陸前高田は、アバンギャルドな土地柄なのだと思う。

陸前高田は、マスコミュニケーション戦略、戦術が上手い。

陸前高田のように中心部(平野部)が壊滅した街は、南三陸町、大槌町、旧雄勝町、旧牡鹿町などのように、他にも幾つもある。
しかし、被災地としては陸前高田が最も有名である。
奇跡の一本松については、「枯死したにもかかわらず、大金をかけてレプリカを作ることに意味があるのか?」と批判されたが、その前後の挿話も含めて、陸前高田の被災地イメージを広めるのに役立っている。
他の街と比べて受けている援助が手厚いのかどうかは分からないが、結果として、陸前高田が最も復興が進んでいるのは間違いない。

2014年4月
JRドラゴンレール大船渡線 脇野沢駅近く。
線路が埋もれている。
この区間は、鉄道は復旧しておらず。
今は、BRT(バス輸送システム。代行バスとは違う)が運行されている。


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