淡い色のわらびりんごの花が、春の風に静かに揺れています。
わらびりんご通りにて。
令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問して定点観測するシリーズ。
牡鹿半島を訪れた過去の記録は、
2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
リアス式海岸から成る牡鹿半島は、入り組んだ小さな入り江が多く、平地が狭いために、大きな集落は発展しませんでした。仙台からもクルマで2,3時間はかかり、遠いために観光地としても発展しませんでした。漁業を生業とする、小さな集落がほとんどだったようです。これらの漁業集落では、人家は漁港の近くに密集して建ち並んでいました。
そして、大震災では、それぞれの集落が壊滅的な打撃を受けました。
これらの漁業集落は、防災集団移転促進事業によって、高台の山の中を切り開いて造成した新しい土地に、集団移転しています。
コンパクトシティ的な発想によって集落が集約化されることはなく、それぞれの集落がそれぞれ高台移転しました。
国庫補助100%による高台移転住宅は、その後、今日では、多くが限界集落化している経緯については、先の記事にて解説した通りです。
実際、どんな感じなのか?
牡鹿半島の高台移転住宅の現在の姿を、見に行ってみました。
※以下、写真に個人宅が写っているために、集落名は記載しません。
2017年5月に写真撮影した場所を再訪してみました。
2017年5月
新築住宅を建設中でした。
↓
空き地もなく、家々は、一通り建ち並んでいます。
真新しいニュータウンといった趣です。人家の数は13軒ですが、公園もあり、広々とした造りです。
高台に登ったところに新しい高台移転住宅の団地が造成されています。後背の山の姿を見れば分かる通り、木を伐り、山を削って造られています。
住宅地の中に入ってみます。
ここも、空き地はなく、広い敷地に大きな家がゆったりした造りで建ち並んでいました。家のサイズや、クルマの数などが察するに、ほぼ全てがファミリー物件です。
手前の建物は、この集落の集会所です。
コンクリート敷の駐車場と家屋の隙間の地面からは雑草が茂り、空き家となっていました。
しかしよく見ると、この写真の家々は、同じ形、サイズなんですよ。
注文住宅というよりも、建売分譲住宅だったのかもしれません。推測するに、サイズが小さいので、高齢者のみの夫婦・もしくは独居の世帯向けの住宅だったのではないでしょうか。
以上、3つの高台移転住宅の集落を見てきましたが、あちこち空き地だらけ、空き家だらけといった状況ではありませんでした。
牡鹿半島の中で最大の集落、鮎川。
ここは、平成の大合併によって石巻市に吸収される前の牡鹿町の町役場がありました。
捕鯨の街としても有名です。
かつての空中写真を見ると、震災前は港の際まで人家が密集していたようです。
今は漁業関連施設、捕鯨をテーマとした博物館などがあるのみで、人家はありません。
高台にある住宅地は、おそらく被災しなかったものと思います。
2012年4月の様子
↓
2025年3月現在の様子
写真左奥の、高台の大きな建物は、石巻市役所 牡鹿総合支所。合併前の牡鹿町役場でした。
手前の平地部は、がらーんと空き地が広がっています。
手前部分は、「健康づくりパーク」という名前のパターゴルフ場となっておりますが、周辺の土地は市有地ですが、石巻市は、貸付けまたは売払いの募集を行っています。借りても買ってもどちらでも対応可能なようです。
借り手も、買い手もいない、といったところでしょうか。
港には、捕鯨をテーマとした博物館があり、捕鯨船の第十六利丸が展示保存されています。無料で公開しており、中には入れないものの、デッキまでは上がれるようでした。訪問した時間が少し遅かったために、デッキに上がれなかったのは残念。
令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問するシリーズ。
石巻市中心部を訪れた過去の記録は、
2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その3 石巻
2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
海岸からは、800mくらいは平らな土地が続いています。
震災前は、南浜町、門脇町ともに住宅が密集して立ち並ぶ、住宅街でした。石巻市立病院も南浜町に所在していました(今は石巻駅前に移転)。
ほぼ全域が津波をかぶり、建物はほぼ大破し、数百名規模の死者を出しています。津波によって流されたガレキに引火して、大規模な火災も発生しています。
今日では、南浜町においては、人家はゼロであり、居住人口はゼロです。門脇町も、居住人口は減りました。
南浜町は、ほぼ全域が石巻南浜津波復興祈念公園という、静かで広い公園になっています。
門脇小学校は、海岸からは800mくらいの後背の丘のふもとに位置していますが、高さ1.8mの津波がここまで押し寄せています。
ガレキが引火して火災が発生し、3階建て校舎の3階まで火が燃え広がりました。
後背に山が位置していて避難しやすいという地理的条件、日頃から訓練を重ねていた成果により、発災時に学校にいた生徒・教職員の人的被害はゼロでした。
(下校途中の低学年児童が7名、犠牲になっています)
前述のように、南浜町、門脇町の居住者はほとんどいなくなったため、学校は2015年に廃校になっています。
震災遺構として整備し、2022年にミュージアムとして有償(大人は600円)で一般公開しています。
私は、ここを訪れるのは初めてでした。
遠くから校舎を見たところ。
写真右側の建物は、展示・事務棟。
後背の小高い丘は公園となっており、学校では、日頃からここに避難する訓練を行っていました。
津波をかぶったのは、おおむね1階程度までだったようですが、前述のように、火災によって3階までが外装はボロボロになっています。窓ガラスは割れたまま。
この樹木は、震災後、若い芽が出てきて育ったものだそうです。
入場料を支払って、中に入ります。
1階の校長室。
津波+火事の両方により被害を受けています。
3月11日といえば、年度末ですが、作成済みの通知表は金庫の中に保管していて、無事だったそうです。
廊下。
火事で焼けたままの姿。
机とイスは、木の部分は燃え落ち、金属パイプ部分のみが残っています。
それにしても、よくも被害にあった姿のまま残していたものです。
机やイス、什器のそれぞれを、全く動かすことなく、そのまま保存して、これを見学できるようになっています。
心情的には、このような姿を目にしたら、片付けたくなるものです。
敢えて片付けたい気持ちを抑えて、後世への教訓とするために、そのまま残したのではないでしょうか。
この学校の校内での人的被害が1名でも出ていたら、やはりそうはいかなかったでしょう。
体育館が、展示コーナーとなっています。
牡鹿地区の消防団車両が、津波で流されて大破した姿で展示されています。
他にも、体育館内部には、仮設住宅の実物も改築展示されていました。
石巻市内の犠牲者全員の名前を記した慰霊碑がありました。
石巻市内だけでも、3千2百名が死亡しています。(行方不明者を除く)
後ろに見えるのは、石巻市営 門脇西復興住宅です。
公園の中央部には、みやぎ東日本大震災津波伝承館が建っており、ここは無償で見学することが出来ます。
伝承館、これは必要だと思います。
既に大震災の発災から14年が経ちました。今の中学2年生が生まれたときです。今の中学生以下は、リアルタイムに体験していないのです。
伝承館の果たすべき役割って、2つあると思うんですよ。
あと70年くらい経てば、「その時点で生きている世代」全てが、リアルタイムな震災の体験をしていない、ということになります。
語り部もいなくなります。
その時がくれば、引き続き1「教訓を伝える」は必要だとしても、2「記憶を伝える」は、伝承館という形で行う必要はなくなるかもしれませんね。
博物館・ミュージアムって、維持費が膨大にかかります。かと言って、中途半端な低予算で運営し続けようとすると、様々な展示物は年月が経つにつれてだんだん色褪せて古臭くみえてきて、伝えるべき教訓・記憶までがショボく感じてきてしまうんですよ。
上記の旧 門脇小学校のような、震災遺構も、エレベータを設置したり、外壁の剥離予防の工事を施すなど、開設までに8億5千万円の費用がかかっています。常勤スタッフは何人もいるし、ランニング費用もかかります。
私のこの考察に対して答えはないのですが、今、私が思い出したのは、桜島の埋没鳥居です。
2005年3月に訪れた、桜島、黒神の埋没鳥居。
大正3年(1914年)の桜島の大噴火の際に埋まった鳥居です。
後に氏子の方々は掘り起こそうとしたそうですが、当時の村長の英断により、そのまま残り、噴火の恐ろしさ、被害の大きさを雄弁に語り続けています。
これはランニング費用ゼロですね。
「教訓を伝える」成果とランニング費用を考えた場合、コスパ抜群の方法と言えます。
令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地である、奥松島・野蒜~石巻~牡鹿半島を再訪しました。
この災害の被災地には、数年おきに訪れ、同じ場所の復興状況/復興していない状況を定点観測しています。
野蒜についての過去の記録は、
2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その2 野蒜
2017年5月(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2階の途中まで津波が入ってきた駅舎は、東松島市 震災復興伝承館としてリニューアルされていました。
2017年時点では、2階のみが資料室となっており、1階にはファミリーマートが入居していましたが、今は全館が津波災害の伝承施設となっています。
展示物の多くは、写真パネルです。
観光オフシーズンゆえに、広い駐車場には数台のクルマしか停まっていませんでしたが、時おり家族連れなどのツーリストが訪れて展示資料に見入っていました。
ホームと線路は、震災遺構として保存されています。
ホーム上には上がれませんが、周囲を一周できるような歩道が整備されていました。
私は、震災から13ヶ月後の2012年4月にここを訪れて、あっちを向いたりこっちを向いたり折れ曲がっている電柱・架線柱、切断され垂れ下がったままの架線、砂で埋もれた構内のレールという生々しい状況を見学しました。あの頃の状況と比べると、きれいに整ってしまって、津波の被害をイメージしにくいことは否めません。
(参考)
2012年4月、野蒜駅ホームの様子。
旧駅前。
ガキの頃に、親の転勤で仙台に住んでいたことがあり、ここに海水浴に来たことがあります。あまり覚えていませんけど。
護岸工事は完了しています。
静かな海岸。
震災・コロナ禍後、2022年には海水浴場として再開したものの、利用者低迷のため、わずか2年で終了したようです。
河北新報の記事の中では、震災の影響というよりも、娯楽が多様化して海水浴離れが進んだため、と分析されています。
かんぽの宿奥松島と、周辺の被災直後の空中写真が、旧野蒜駅の伝承施設に展示してありました。
松の防砂林が植林されていました。
まだまだ背が低く、防砂林として役に立つようになるのは何年もかかりそうです。
震災前には、この後背には人家が立ち並び、中学校もありましたが、今は何もありません。
JR仙石線は、仙台から石巻まで、海岸沿いを走っていた鉄道路線ですが、大規模に被災しました。
新たにルートを山側に変更して、2015年5月には営業再開しています。
海に近い場所を通る区間では、津波被災時の被害を軽減するために、高架化されているところもあります。
高台に再建された新 野蒜駅。
この新 野蒜駅と、お隣りの新 東名駅は、標高が高い山の中を新たに開拓して、鉄路が敷かれています。
周辺には、同じように山を切り崩し、あるいは逆に盛り土をして、新興住宅団地「野蒜ヶ丘」が開かれています。
2017年に訪れたときは、まだ住宅地は半分くらいしか家が建っておらず、あちこちで建築の槌音が響いていました。
今は、空き地もなく、びっちりと家が建ち並んでいます。
後述しますが、人気の住宅街であったとのことです。
一見すると首都圏郊外のニュータウンのような印象も受けますが、一軒一軒の家々は、敷地が広く、また、一軒あたりのクルマが2台、3台と駐車してあるのは当たり前である点が、大きく異なります。
ちょうどお昼時だったので、google mapで探してカフェに入り、カレーライスをいただきました。
お店を一人で切り盛りしている御婦人と話をしました。
・震災前は、野蒜の川沿い(東名運河のことかと思います)に住んでいた。
・やはり野蒜に住み続けたくて、野蒜ヶ丘の住宅地募集に何回も申し込んだ。山を削った土地が人気で、盛り土した土地は地盤が弱いから不人気だった。3回目でようやく抽選に当たった。
・山を削ることによって余った土は、巨大なベルトコンベアを設置して運び出した。
(陸前高田のベルトコンベアと同じものですね)
・野蒜ヶ丘の造成が終わり、土地の募集が始まるまでに、震災から8年間がかかった。待つ時間は、体力勝負だった。
(この8年間は、仮設住宅に住んでいたのでしょう。狭くて不自由が多い仮設住宅に8年間も住みつつ待ち続けたのは、さぞ体力も気持ちも削られたことと思います)
・家族や家を失って、野蒜を離れた人もいるが、墓参りに戻ってきたときに、ゆっくり休める場所がない。知っている人の家も、どこにあるか分からない。新しい家だらけで、どこの家のチャイムをピンポーンと押したらいいか分からない。電車待ちの間にコーヒーを飲んで一息ついて、心の整理ができるようにと、カフェを開いた。カフェ営業の経験があったわけではない。
昨日、令和7年(2025年)3月27日、埼玉県議会 2月定例会が閉会しました。
令和7年度の埼玉県一般会計など全ての予算案を含む、106議案が可決・同意されました。
予算案を決める2月定例議会(あるいは、自治体によっては3月定例会)は、全国どこの地方自治体においても、一年で最も長く、忙しいものとなります。
個人の確定申告や、政治資金収支報告その作成・提出などの締切もこの時期であり、様々な作業を並行してこなしながらの定例会が閉会して、ホッと一息ついております。
昨日の閉会日においては、議会人事(あわせて自民党県議団の会派人事も)の役職の選挙・選出、所属・配置替えも一通り行われました。
私の所属先の委員会は、
常任委員会は、(今まで)産業労働企業委員会 → (昨日から)文教委員会となり、文教委員会では副委員長に選出されました。
特別委員会は、(今まで)自然再生・循環社会対策特別委員会 → (昨日から)公社事業対策特別委員会となりました。
蕨市議会では、委員会の副委員長というのは、委員長に何かがあった時のバックアップ以上の役割はなく、単なる名目だけのものでした。
埼玉県議会では、委員会の副委員長にも、果たすべき役割が与えられており、それなりに忙しくなります。また、委員長を補佐しながら委員会を運営することが仕事となるため、自ら質問することは出来なくなります。
来年度は、与えられた役割が大きくなり、忙しくもなるでしょうが、その分、やりがいも大きくなりますし、結果を出すことも求められてまいります。
尚一層精進して頑張って活動致します。
この令和7年(2025年)4月より、朝霞児童相談所がオープンします。
児童相談所への相談件数は増加傾向にあり、分散化するためです。
なお、蕨市は、以前より、川口市前川にある南児童相談所が管轄しており、今後も変わりません。
このたび、オープン前に朝霞児童相談所の内覧会があり、見学してまいりました。
児童相談所には、
・事務スペース
・一時保護所(居住シェルター)
の2つの機能があります。
以前見学した、南児童相談所では、この2つの機能が別々の建物に所在していましたが、朝霞児童相談所では、一つの建物の中に同居していました。
思ったよりも広い(席数が多い)ですね。
90席ほどのフリーアドレス制の大部屋です。
一時保護所を見学できるのは、オープン前だからこその貴重は機会です。
以前見学した南児童相談所では、居住する子どもたちのプライバシへの配慮のために、中に入ることは出来ませんでした。
尚、この朝霞児童相談所の一時保護所の定員は、30名です。
しかしながら、どこの児童相談所の一時保護所でも、定員オーバーが常態化しています。
廊下。
明るく、白色基調で、木目を織り交ぜたデザインで統一されています。
ドアの作りは、いかにも役所か病院かといった印象ですね。
小さな子ども向けのくつろぎ部屋。
椅子・テーブルは小さく、備え付けの絵本なども対象年齢に合わせた品揃えとなっています。
もっと年が上の子供向けのくつろぎ部屋。
TV、漫画、本、ゲームが備え付けてあります。
くつろぎ部屋は、大部屋が一つだけある、という仕組みではなく、小さな部屋がいくつも用意されています。
食堂。
調理室。
食事は、所内で調理されます。
低学年向けの教室。
この児童相談所に保護された子供たちは、ここから近隣あるいは元の所属学校に通学することはありません。
この児童相談所の中で、学習することになります。
教師は、教育者OBOGなどが務めるそうです。
小さな子供向けのトイレ。
お漏らしをしてしまった場合を想定したシャワーもあります。
個室。
子どもたち一人ひとりに個室が用意されています。居心地良さそうですね。筑波大の追越宿舎よりも快適そうです。
トイレ、お風呂、洗面所は共同です。
兄弟姉妹向けの2人部屋。
こちらの個室は、トイレ、シャワーが備え付けられています。
何らかの理由(感染症など)で隔離しなくてはならない状況を想定した部屋のようです。
宿直室。
箱庭療法のための道具。
様々な小さなフィギュアが用意されていて、面白そうです。
相談室。
別の相談室。
相談室は、事務的な雰囲気の部屋、リラックスした雰囲気の部屋など、いろいろなパターンが用意されています。
屋内体育館。
屋上の庭園。
他にも屋外に砂地の庭、砂場などがあります。
遊び場に関しては、定員:30名の割には充実している印象です。
迷わず児童相談所へお電話ください。
おせっかいでも構いません。
あなたの連絡が、子どもたちを救う第一歩になります。
📞児童相談所相談ダイヤル:189(いちはやく)
昨年、令和6年(2024年)12月定例議会にて、埼玉県では、埼玉県拉致問題等の早期解決に向けた施策の推進に関する条例が制定されました。
自民党県議団の中に設置されたプロジェクトチーム(私も事務局メンバの一人として参加していました)が、他自治体の先行事例を調べたり、救う会埼玉・家族会からヒアリングしたり、拉致被害現場を視察したりといった準備を重ね、執行部(県の行政当局)との調整を行った上で提案し、可決されたものです。
既に長期間に渡り行政当局とは調整を重ねておりましたので、昨年12月定例会の条例制定以前から、行政当局はこれらの動きを分かっていたはずであります。令和7年度 埼玉県一般会計予算において、どの程度、拉致問題解決への取り組みが強化されるか?という点が、気になるところでした。
令和7年度予算案は、ただ今、開かれている令和7年度(2025年度)2月定例会において、執行部により提案され、審議されております。
令和7年度埼玉県一般会計予算案 福祉部関連説明書(c)埼玉県
拉致関連予算額は、何とまさかの、50万円でした。
もちろん、金額が多ければいいものではありません。
「北朝鮮によるすべての拉致被害者の身柄の奪還」が唯一最大の目的であり、これが実現されるのであれば、金額は小さかろうが構いません。
しかしながら、 この金額の小ささは、残念に思います。
予算特別委員会資料(c)白土幸仁 自民党政調会長(春日部市選出)
3月17日、予算特別委員会においても、自民党議員から本件に関して「金額が少なすぎるのではないか、もっと力を入れるべきではないか」という指摘がなされました。
白土 自民政調会長の調べによると、埼玉県の50万円は、川口市の65万円よりも金額が少ないとのことです。
また、予算見積調書(c)埼玉県(これは、公開資料です) を見てみると、「戦没者異例諸費」事業という、あたかもおまけのような「その他全部」みたいな科目にまとめられてしまっていることが分かります。
繰り返しますが、金額の多寡が問題なのではなく、求められているのは、「北朝鮮によるすべての拉致被害者の身柄の奪還」という目的に対する実効性です。
しかしながら、そのためには、私達日本国民が、心を一つにして「ワンチームで」同胞の身柄奪還に向けて力を合わせて取り組んでいる、という姿勢を、北朝鮮や国際社会に対して示すことが必要です。
どれほど力を入れて頑張って取り組んでいるか、の象徴が、関連予算額の多寡である、ということは言えると思います。
北朝鮮や、我が国における北朝鮮の出先機関である朝鮮総連は、私たちの動きをウォッチしています。
北朝鮮と、朝鮮総連に対して、徹底的に圧力をかけていきましょう。