さて、東京オリンピック、始まってますね。
東京都内を訪れるわけでもなく、すぐ近所を会場として開催されているわけでもなく、どこかの会場を訪れて観戦できるわけでもなく、結局は、各種メディアを通じて見聞きするだけなので、いまいちリアリティが感じられないのですが、それでも楽しいです。
自転車のロードレースのコースである道志みちは、よく走るコースでもあり、ぜひ現地で見たかったところなのですが、このコロナ禍でそれは叶わず、残念でした。
前回、昭和39年の東京オリンピックは、本当に素晴らしいレガシーを、私達、後の世代に残してくれました。
東海道新幹線も首都高も、昭和39年東京オリンピックの直前に造られたもので、オリンピックのレガシーです。
戦争で負けてからまだたったの19年間しか経っていないタイミングなのに、オリンピックを開催して、よくぞあんな立派なものを造って、後の世に残してくれたものだ、と感激します。
私が初めて海外旅行したのは、大学3年生の時、1995年に、ベトナムへ行ったのですが、これは、1975年のサイゴン陥落から20年後ということで、だいたい戦後ということでは、東京オリンピックを開催した昭和39年当時の我が国と同じくらいのタイミングでした。
当時のベトナムは、まだまだいろいろインフラも整っていなくて、国全体で交通信号機が3機しかない、という状況だし、全然オリンピックを誘致できるような体力があるわけではなく、有史以来の教育に力を入れてきた民族的背景、他民族に侵略されたことがないという歴史、諸々のインフラの蓄積があることや、ベトナムと異なり本土決戦が行われなかったなどの条件の違いを除いても、我が国の戦後復興がいかに目覚ましく素晴らしいものであったかということを感じ入ったものです。
妻が、どこかで何かの、昭和39年東京オリンピックのレガシーを解説するTV番組を見ていたそうなのですが、その中で、ハードウェア面の変化に加えて、オリンピック前後での日本人のメンタリティの変化を取り上げていたそうです。
(このTV番組、今となっては、どこのTV局の何という番組か分からないのですが)
昭和39年東京オリンピック以前は、我が国の鉄道列車の車両の中は、靴が埋まってしまうくらい、弁当の箱やら何やらゴミだらけだったのだそうです。
走っている列車の窓からゴミを投げ捨てるのは当たり前。
今では考えられないですね?
このような日本人のメンタリティが変化したのは、東京オリンピックが契機だったのだとか。政府が大々的に行った「街をきれいにしよう」キャンペーンの成果によるものなのだそうです。
そう言えば、夏目漱石の『三四郎』の序盤で、大学に進学するために九州から鉄道で上京する主人公が、食べ終わった駅弁の箱を、走っている窓から投げ捨てて、残飯の一部が向かいの席に座っている女性の顔にかかってしまった、というシーンがありました。
1995年に私がベトナムを訪れた時、サイゴンからハノイまでの統一鉄道の寝台列車にフエ経由で2晩かけて乗ったのですが、たまたま途中までコンパートメントに乗り合わせた方々と話をして仲良くなったところ、ベトナム国鉄の職員さんたちでした。
この人達も、当たり前のように、弁当のゴミやら何やらを窓から投げ捨てていました。
私の亡き父親も、昭和50年代には、当たり前のように、ガムの包み紙やらタバコの吸殻やらを、路上や、ドブに捨てていました。
母親に「子供の前では止めてっ!」と叱られていましたが、おそらく、何がどのように悪いか、父親も母親も分かっていなかったんじゃないですかね?
ついでに言うと、共産中国の長距離鉄道列車の硬座の車両内なんかも、ちょっと前まではゴミだらけと言われていましたし、北京の胡同を歩くといまだに排泄物の芳しい香りが通りの角を曲がるたびに漂ってきますが、あと数年で劇的に変わるでしょうね。
中共は、国全体が、数年後にはすごくきれいでクリーンな国になるでしょう。
その国の国民のメンタリティは、何かのきっかけさえあれば、一瞬のうちに劇的に変わるものです。
なんか話が長くなりましたが、私達は、多大な犠牲を払って、この度の2回目の東京オリンピック・パラリンピックを開催する以上、何らかのレガシーを後の世代に確実に残すべきだと思います。
それは、ハードウェアのように、「今後、50年、100年と使い続けられるように」と、意図して作り上げるものだけではなく、後に振り返ってみれば、「そう言えば、あれが令和の東京オリンピックのレガシーだった」と数十年経ってから結果論的に評価されるようなソフトウェア的なものも含みます。
何らかのレガシーを後の世代に残さなくては、わざわざ、ここまで多大な犠牲を払ってとオリンピック・パラリンピックを開催する意味はないと思います。