hoya_t blog 2014/9/19 : 呉鎮巡り1
の続き。
陸奥の41cm主砲。
陸奥の主錨。
大艦巨砲主義と巨大戦艦が、戦略理論・戦略兵器だった時代、
「陸奥と長門は日本の誇り」と謳われた通り、戦略兵器である陸奥は大国日本の象徴であり、夢と希望を感じる対象だったのだろう。
今はこれに相当するものとしては、核戦略・核兵器が代替されているが、核兵器は、弾頭、大陸間弾道ミサイル、ミサイルサイロ、戦略原潜などの全てを含んだ大きなシステムによって構成されているので、核ミサイルそのものはロマンを感じる対象ではない。
金剛のヤーロー式ボイラー。
なんと、英国ヴィッカース社で建造された当時のもの。
レプリカではなく、本物。
石炭、重油混焼式で、これが36基搭載されていた。
帰国子女の金剛たんの心臓部と考えると、かなーり萌ゆする。
説明書きによると、「近代化改装の折りに取り外され、1993年まで海軍技術研究所、後の科学技術庁金属材料研究所の暖房として使われていた」とのこと。「金属材料研究所」というのは、「金属材料技術研究所」のことだと思うけど、この組織は、今は独立行政法人物質・材料研究機構と組織改編している。1995年につくばに移転しているので、その頃、使われなくなったのだろう。
長門の専任旗。
大和ミュージアム : 戦艦「長門」の「先任旗」贈呈
米兵が持ち帰ったものがテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に鑑定に出され、買い取った司会の方が寄贈したもの。
進水式というのは晴れの舞台で、そこで配られた絵葉書、お土産、支綱切断の斧、案内状などが展示されていました。
以下、写真は一部だけ。
比叡の支綱切断の槌と鏨。
さすが御召艦。
天龍の進水式で配られた絵葉書。
俺の名はてんりう・・・フフフ怖いか?
飛龍の絵葉書。
飛行甲板の縦縞が美しい。
日の丸が何故描いていないのかというと、味方の誤着艦を防ぐためにミッドウェイの時に初めて描かれたものだったので、進水時にはなかったらしい。
特殊潜航艇海龍。
呉市内の遺跡など
大和ミュージアムと、海のくじら館(海上自衛隊史料館)を出て、市内を散策。
呉駅近くの引き込み線。
詳細不明。
写真左手前側は、線路は切れ、マンションの敷地に通じている。
後で調べたら、海軍臨港鉄道線というらしい。
参考) 三十糎艦船連合呉支部 : 写真館 宝町(呉駅周辺)
呉下士卒集会所。
今は海上自衛隊呉集会所。
建替計画があるらしい。
入船山公園へ。
あれっ、この童子像、どこかで見たことあるかも?
蕨市立図書館の庭にあるものと同じだ。
今初めて知ったけど、せんと君も同じ作者の藪内佐斗司氏の作品らしい。
入船山記念館へ。
東郷平八郎元帥の自宅離れ。
大尉時代に呉鎮守府に赴任していた時に住んでいた家らしい。
呉海軍工廠造機部の庁舎屋上につけられていた時計。
呉鎮守府の立哨小屋。
呉鎮守府の火薬庫。
呉鎮守府長官公邸。
表の応接空間は洋風。裏の居住空間は和風というハイブリッド。
重巡青葉の遺物と遺跡
せっかく呉まで足を伸ばしたので、いろいろ見て回りたかったのだが、今回はあまり時間がなかったので、呉市警固屋地区の、青葉の大破着底地点のみ訪れた。
青葉は、ルソン島沖で大破後に修理のメドが立たないままこの地で呉空襲を迎え、浮き砲台として奮戦し大破着底した。
石碑の文字は、中曽根康弘元首相の揮毫によるもの。
海軍で最初に配属されたのが青葉の主計だったらしい。
軍艦の主計というと、食事担当のイメージが強いけど、総務周り全般の中間管理職という感じだろうか。
青葉の進水式での支綱切断斧。
すごく綺麗だな。
(大和ミュージアムにて。)
大破着底後の青葉の写真。
(大和ミュージアムにて。)
青葉の20cm主砲。
(九十一式徹甲弾の奥)
説明書きによると、サボ島沖海戦で大破した後、呉海軍工廠で修理を受けた折りに取り外され、そのまま倉庫に保管してあったらしい。新品と交換して、不要になった部品として放置されていたということか?
(大和ミュージアムにて。)
各艦の大破着底地点は、このサイトが情報が充実している。
ヲタにつける薬なし : 艦娘を偲ぶ旅。帝国海軍終焉の地、呉で最期を迎えた艦娘の大破着底地点へ行ってみた。