2015年度予算説明を受けました。

さて、本日2015年1月27日(火)、蕨市執行部より、2015年度の予算説明を受けました。
予算は、4月~翌3月までの単年度制で、毎年、その年の3月定例議会に上程され、審議されます。
3月定例議会の開会に先立って、会派ごとに説明会が行われる慣習になっています。
そもそも上位の国・県レベルの予算が未だ固まっていないゆえに、流動的な部分も多く、定例議会告示のギリギリまで細かい調整を行うようです。
そのため、今日の段階で受けた説明も、あくまでも大雑把な概要のみで、配られた資料もA3用紙6ページ程度の粗いものであります。


平成27年度蕨市一般会計歳出予算概要書デース

 

ディテールは、後日、厚さ1.5cmほどの正式な予算書が送られてくるので(これもあくまでも概要なので、細かいことは担当者に聞いてみないと分からない)、これを読み込むとして、まず今の段階で、新規項目を中心として目についたところは、以下。

 

一般会計の総額は226億。

今年度は219億なので、微増。

 

全体としては、とても保守的で手堅い予算案、という印象。

日本共産党員である頼高英雄 現市長としては、2期目の任期最後の予算となり、5月には3選目の選挙を迎えることとなる。私の所属する自民党としては、真っ向から主張が対立するような部分はなさそう。少なくとも、人民公社設立準備費、コルホーズ設置費補助金みたいな項目はざっと見たところ見当たらない。

 

ファシリティマネジメントに関して、予算がついた。

国・県レベル、他の市町村と同じく、蕨市も、高度経済成長期に造った公共施設が一斉にボロボロになって更新時期を迎えている。今後、人口は横ばいで高齢化が更に進む、つまり税収が減っていく中で、現行の公共施設全てを建て替えて維持することは出来ない。そこで、どのようにリストラしていくか、近い将来、戦略レベルの身を切る辛い意思決定が必要になる。
しかしながら、市役所の中では、各公共施設を所管する部署ごとバラバラに施設の管理をしていて、予算取りしており、戦略レベルでの検討がまったく為されていなかった。担当部署としては、当然ながら、自らが所管する公共施設をリストラしようというインセンティブは働きにくい。
これらの市内各公共施設のリストラ・保守を、一元的に管理していこうという方法論がファシティマネジメントというもので、まあ言葉にしてみれば当たり前のことなのだが、それが出来ていなかった。
今回、ようやく「公共施設等マネジメント白書の作成」ということで、400万円の予算がついた。
地方自治研究機構という総務省の外郭団体に外注?共同作業?するらしいが、この団体がどの程度のノウハウと実績を持っているのかは不明。4割が自主財源で、6割は補助金?が出るらしい。

 

自転車ヘルメット購入費補助金という制度ができる。

18歳未満と65歳以上が対象。ヘルメット代の1/2で、上限2,000円を補助する仕組み。総額1百万円。ということは、上限500人ということか。
まあ、取り敢えずテスト的にやってみよう、ってところだろうか。
あまり効果無いような気もするが。
5,000円くらいの安くてダサいヘルメットを買っても、子供はかぶらないと思うけど。
チャリのヘルメットをかぶるのがカッコイイ!というマーケティングをやらないと。『弱虫ペダル』のクライマー巻島が「自転車乗るならメットかぶるっショ」というポスターを作って学校に撒く的な。幾らかかるか分からないが。
もしくは、個人的にはそういうのは嫌いだが、学校の校則レベルもしくは条例レベルで罰則規定を設けるとか。

 

・生活保護受給者と生活困窮者の自立支援事業が拡大

ともに、国からの委託事業。
つまり、国から下請けして蕨市が行うサービスなのだが、原資の一部は市から出さなくてはならない。
おそらく、国レベルの上位の法が改正されたことによるものだと思うけど、不勉強なので、詳しい事はよく分からない。これから調べないと。「生活困窮者」という概念も、今回の制度改正でおそらく新たに設けられたものだと思うが、何のことだかよく分からない。

 

中心市街地活性化事業の予算が拡大

中活というのは、駅前と中山道の商店街の活性化のこと。国レベルからの認定制度。
そろそろ認定が下りるらしい。
頑張ってほしい。

 

錦町区画整理事業への、一般会計からの繰出金は横ばい

前年度比-0.8%の横ばい。
移転戸数25棟、仮設住宅建設3棟の予定とのこと。
「更なる推進」を求めている立場の私としては、がっかり。


つくば市に「自転車のまちつくば」を視察。

先日2015年1月15日、茨城県つくば市に、県南都市問題研究会のツアーで、「自転車のまちつくば」都市計画の視察に行って参りました。

この一連の計画は、「市内交通手段をクルマから自転車にシフトさせる」政策です。

私は、筑波大学在学中の4年間(1993~96年度)住んでおり、大学ではチャリ部に所属していたこともあってかなり自転車移動中心の生活をしておりましたが、

つくば市は完全なクルマ社会であり、
(1)自転車で移動するには広過ぎる
(2)歩道・自転車道は、夜は真っ暗で走るのが怖い
という2つの理由から、つくば市において「市内交通手段を車から自転車にシフトさせる」政策というのは、あり得ないし無理だろうと思っておりました。

実際どんなもんなのかを見てきました。
(2)の理由は、私が住んでいた頃から20年経った今日は改善されてるかもしれないですしね。TX(つくばエクスプレス)が開業して、事情も変わったでしょうし。


まずは市役所で担当者から話を伺う。

この一連の政策の目的は、
(1)クルマ交通量を減らすことによる、排ガス削減
(2)市内道路の慢性的渋滞の緩和
(3)自転車に乗ることによる、市民の健康面の向上
とのこと。

なんだかよく分からない。

別にクルマを止めて自転車に乗らなくても、EV化・FCV化の促進、バス等の公共交通手段の充実等、他の手段で解決出来そうですよね。

 


自転車シェアリングの自転車車輌。

どうやって使うのか、よく分からない。
一般的に、自転車シェアリングのシステムというのは、ICカードのようなもので自転車置き場の脇に立っている操作盤で借り入れ操作を行って借りる、という仕組みのものが多いと思うけど、そういうものは何もない。
事前登録ユーザは、勝手に借りて行っていいのか?


自転車シェアリングの看板。

ということで、定量的な効果検証はおろか、そもそもKPIと目標数値の設定もしていないみたいだし、何がなんだかよく分かりませんでした。
よくつくば市に納税している後輩どもが怒らないものだと思いました。(すみません)

 

個人的には、そもそも自転車シェアリングって嫌いです。

自転車という、ママチャリならせいぜい1万ちょいと安価で買えて、極めて趣味的、個人的な移動手段を、何故、他人と共有しなくてはならないのか?
クツとかパンツとかを他人とシェアリングするか、ふつう?
なんか気持ち悪いんですよね。

カーシェアリングは別。
あれは、クルマを個人所有するコストを減らすことが目的のシステムなので、まったく別モノ。


2014年12月衆院選雑感–「昔の中選挙区制の時の方が、今の小選挙区制の時より良かった」?

hoya_t blog (2014/12/17) : 2014年12月衆院選雑感–全体編
こちらの記事の続き。

私が所属している自民党は、蕨市のような郊外ベッドタウンでは、60代、70代のリタイアしたシニアセグメントが表に立ってメインの選挙活動を手伝ってくれる層、ということになる。
これらの方々は、それこそ何十年も前から選挙が好きで(一種の、祭りに参加するような感覚)、ディープに関わり続けて方が多い。
本当に、ありがたいことです。
(商店街地区、工業地区や農村地区であれば、これらの商工自営業者・農家の現役・若年セグメントも加わることになる)

選挙中に限らないのだが、これらの60代、70代シニアセグメントの方から、よく、

「今の小選挙区制の時代より、昔の中選挙区制の時代の方が良かった。
衆議院議員が個性が強くて、優秀で、元気だった。
今は、衆議院議員が、粒が小さくなった」

というような言葉を聞くことがある。

もちろんこれは、自分たちの選挙区の特定の誰かの代議士をどうこう批判・批評する話ではなくて、日本全国の一般論として語られる言葉だ。

衆議院議員選挙が中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変わったのは1996年で、私は中選挙区制時代を経験していないので、特に感想もなく、
「はぁ、そうですか。」
というくらいの返事しか出来ないのだが、何か違和感があって、頭の中で引っ掛かっていた。

 

中選挙区制下においては、一つの選挙区で複数の自民党公認候補が立候補し、激しく争うことになる。同じ政党に所属し、同じイデオロギー、政策を信奉している以上、イデオロギー面、政策面で競い合う要素は無く、畢竟、人柄やら個性やらを前面に出し、選挙運動の派手さを競い合う金権選挙となってしまう。

 

世界史的な冷戦終結に伴い、国内においても保革イデオロギー対立が無くなったため(何故か我が蕨市だけには残っているけど)、これからは純粋な政策を競い合う政治を作っていこうという理想と、金権政治への反省から、 我が国は(日本国民の総意として)、1996年に小選挙区比例代表並立制に選挙制度改革を行って、健全な二大政党制の実現を目指したわけだ。

その理想イメージの下では、
・お金の流れを主とした繋がりに過ぎない、自民党内の派閥は消滅し、
・二大政党それぞれの内部争いにおいて、派閥の力学が消滅し、純粋な政策の議論が闘わされるようになり、
・人柄と個性のみしか取り柄のない、「元気な政治家」は存在意義がなくなり(ハマコーみたいな)、
・選挙にお金はかからなくなり、
・衆議院議員は、真の政策のエキスパートだらけとなる。

 

60代、70代シニアセグメントの方々には、昔の派手な選挙へのノスタルジーとともに、「衆議院議員の粒が小さくなった」ということを不満に感じられるのだろうが、これらは、日本国民が総意として思い描いた、健全な二大政党制下の理想イメージに近付きつつある、ということなのだ。


見沼代用水の環境整備もろもろ

本日2015年1月20日(火)、たまたま旧中仙道(県道蕨朝霞線)の錦町5丁目交差点(飯野医院がある交差点)付近を通り掛かったところ、開渠(フタを被せずに露天の状態)となっている見沼代用水に溜まったヘドロを、バキュームしていました。
雑誌の束と空き缶のようなものも投げ捨てられていました。

見沼代用水のうち、蕨市錦町地域内を流れる部分は、開渠となっている上に、水の流れがほとんどなく淀んでいるために、ゴミが溜まりやすく、また不法投棄されやすいために、ヘドロがどろどろに溜まり、悪臭を放っていて、汚らしくなっています。

私と、前任の池上東二 前議員は、継続的に、見沼代用水の抜本的な環境整備(埋め立ての検討も含む)を訴えてきました。
私が所属している議会内の自民党系会派:新生会では、毎年予算要望の重点要望として行政側に改善を求めてきましたし、他の各会派からも同じような働き掛けはありました。

今までは、行政側(市役所側)の動きが鈍い、全然何もやってくれないじゃないか!というのが地元の不満でした。
今日のバキューム作業中に、担当部署の方と話しましたが、まあ当たり前の話ですが、担当部署としても問題を認識していないわけではないし、解決に向けて粘り強く動いている、という状況のようです。

見沼代用水という農業用水そのものは、見沼代用水土地改良区という組織が事業主体であり、市としては、この組織に環境整備を訴えていくしかないのですが、結局のところ、動きが渋いのはココですね。

詳細は書きませんが、市役所担当部署レベルでは、持てる職権の範囲内で、ベストに近いことをやっているのではないかと思います。
早期の抜本的な解決に向けては、別のアプローチが必要になりそうです。

ベストのシナリオは、旧浦和市 – 蕨市 – 戸田市を流れる、この見沼代用水の支流部分は、もはや農業用水としてはまったく使われていない以上、埋め立ててしまうことです。

そのために必要なのは、

・周辺農家が所有している既存の水利権の権利処理。
水利権を返上するためには、農家側は、お金を払わなくてはならない。理屈はよく分からないが、とにかくそうなっているらしい。

・埋め立てするならば、そのための土木工事費用。
原則としては、農業用水の事業主体である見沼代用水土地改良区が負担するべきところだが、代用水の支流である旧浦和市、蕨市、戸田市地域は、発言権が小さく、なかなか予算を引っ張ってこれない。
どうやって工面するか。


香港の雨傘革命のその後

さて、作年2014年10月に香港の雨傘革命を見に行ってきたけど、ちょうど先日、Vibram香港100を走りに行ってきたついでに、強制排除されたデモ現場跡地を見学してきた。

hoya_t blog : 2014/10/6 香港の雨傘革命

↑このページ上の写真と比べてみると、変化が分かる。

 

旺角


HSBC(写真右奥)とシティバンク(写真左奥)がある交差点。
普通。

旺角はもうすっかり跡形なし。

 

金鐘の香港市政府庁舎前


市庁舎前の横断歩道から。
普通。


あらゆる言語の応援メッセージが付箋で貼ってあった、市庁舎の外壁。
「No posting」の貼り紙。


雨傘マンのオブジェが置いてあった場所。


車道上を占拠していたテントは全て排除されたが、市庁舎正門前の歩道上に、2,30のテントが残っていた。
寂しい雰囲気。
夜は寒いと思う。


市庁舎正門。


市庁舎正門。
一応、形ばかりの警備はしている。


付箋のメッセージボード。


付箋のメッセージボード。


植木鉢を並べて作った雨傘。

 

リーダーと共通のゴールイメージが存在しなかった市民運動・学生運動は、中共の強硬姿勢を前に雲散霧消してしまった。

中共は、人民解放軍を動かさずに解決してしまったことになる。
普通選挙後退の流れは止まらないだろう。

 


尚、HK100は、無事に22:04’で完走出来た。


山をかき分け、砂浜を蹴散らし走る、香港のトレイル。


夜中なので綺麗に写ってないけど、大東亜戦争中のコンクリ製の塹壕。
おそらく我が帝国陸海軍を迎え撃つために英国軍が築造したもの。


最近の私のメイン機Androidのホーム

かなりどうでもいい話ですが、久し振りにホームのアプリいじりました。

なんかもう、すっかり携帯電話端末における音声電話機能ってオワコンですよね。
キャリアメールも、今どき送ってくる人なんてほとんどいないし。
この2つのアプリは、そのうちホームから消えるでしょう。

twitterは、最近は何となくさっぱり使わなくなりました。
skypeは、国内固定電話かけ放題の年間契約にしていますけど、元取るほど使う月はほとんどないですね。
ライフログ系とジオタグ系は好きなので、swarmはよく使ってますけど、最近は、google calendarに何故かフィードされなくなったので不便。

 

2ページ目以下では、
ライフログ系で最近好みなのが、moves。
クラウド系は、dropbox、evernote、google driveを使っています。


フランス雑誌社に対するイスラム原理主義者によるテロ事件

先日、フランスの雑誌『シャルリー・エブド』(Charlie Hebdo)に掲載された、預言者ムハンマドを茶化した風刺画に怒ったイスラム原理主義グループにより、雑誌社の編集部が襲撃されるテロ事件がありました。
犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。

さて、この事件は、幾つかのフレームワークで捉えることができると思いますが、ちょっと私なりに考えたことをつらつらと書いてみたいと思います。

そもそもイスラム教が「暴力的で、教義的にテロリズムを推奨している」という見方はもちろん間違いであろうと思います。

フランス国内の貧困層、特に、旧植民地諸国からの移民2世、3世に対する差別問題、失業問題などが根底にあります。彼らは、フランスの中ではマイノリティであり、言葉はフランス語を流暢に話すものの、名前はイスラム風伝統的なフランス人の名前とは異なり、顔貌も明らかにマジョリティのフランス人とは異なるし、宗教もイスラム教を信仰しており、様々な形で社会的に差別を受けております。
このような被差別社会集団は、潜在的に、歴史的にみると、違法な暴力集団に吸収されることがよくあります。
例えば、我が国であれば、いわゆる不良とかヤンキーや、在日コリアンが、暴力団・ヤクザにリクルーティングされています。
現在のフランスでは、イスラム原理主義グループが、そのような被差別社会集団の吸収母体として機能している、という見方が出来ると思います。フランスの暴力団・マフィア事情がどうなっているのかは知りませんが、日本のヤクザ・暴力団のように「下積みは辛いけど、出世すればけっこうお金稼げるし、女にももてるし、ウハウハ」みたいな(実態はともかくとして)イメージの組織が存在するのであれば、テロリストたちは、イスラム原理主義グループではなく、暴力団・マフィアに吸収されていたかもしれません。

このような問題は、旧植民地国からの移民を大量に受け入れている欧州の旧インペリアリズム各国では、多かれ少なかれどこの国にでもあるはずで、更に言うと、我が国にも同種の問題が存在しています。

イスラム教が「暴力的である」というのは間違いなのですが、一神教が「他者に対して不寛容であり」、教義的に原理主義を生みやすい、ということは言えるかもしれません。
イスラム教が原理主義を生んだのと同様に、同じく一神教であるキリスト教やユダヤ教からも原理主義は生まれる可能性があります。他方で、多神教である仏教、神道、ヒンズー教などは、他者に対して寛容であり、「こういう見方もあるけど、ああいう見方もあるよね」という余裕があり、「もしかしたら自分が間違っているかもしれない」という懐疑が常に根底にあるため、教義的に、原理主義は存在し得ません。
一神教の世界観における神は、間違いを犯さないパーフェクトな存在です。多神教の世界観における神は、酔って神同士で喧嘩をしたり、人間にイタズラをしたりすることもあります。

今回の事件で感じたのは、フランス流エスプリなるものの傲慢さです。
言論は自由なんだから何を言っても許される、風刺は文化であって、誰もが風刺されることを受け入れなくてはならない、という考え方には強く違和感を覚えます。

フランス流エスプリ・風刺も、これはこれで一つのの歴史的に定着した文化なんだから、それはそれで尊重されるべきだという考え方もあります。
しかしながら、政治信条でも宗教でもちょっとした生活習慣でも、他者が信じているものを批判することは自由であるべきですが、その根底には相手に対するリスペクトがあるべきだと思います。
他者を茶化して嗤う、フランス流エスプリ・風刺からは、相手に対するリスペクトが感じられません。
相手が嫌がることを何故やるのか?
私はとても「Je suis Charlie」などと呟く気にはなれません。

宗教をタブー視することによって引き起こされてしまったのがオウム事件であり、宗教をタブー視してはならない、というのはもっともです。
オウム真理教のような暴力的・排他的なカルト宗教をタブー視せず、適切なタイミングで社会的・法的に制裁を加えておけば、オウム事件は起こらなかったかもしれません。

法的にはともかく、社会的には、伝統宗教と新興・カルト宗教は、異なる位置付けを与えられるべきだと思います。
分類は難しいところですが、その場の状況に応じて、その時代の知識人が知性を総動員して判断するしかないと思います。