自民党埼玉県議団では、すべての拉致被害者の身柄の奪還に向けて条例制定の準備を進めております。
その一環として、プロジェクトチームのメンバとともに、新潟県を訪問してきました。新潟県と柏崎市の拉致問題に対する取り組みのヒアリング内容については、別途まとめて解説しますが、この稿では、幾つか写真をレポートします。
新潟市の横田めぐみさん拉致被害現場
まず新潟県庁へ。
県庁舎は、市内中心部から少し離れたところにあります。市役所と異なり、一般の県民が県庁に何らかの用事があって訪れる機会は皆無ではないかと思います。

鈴木正人議員(志木市)と、知事政策局 国際課 拉致問題調整室を訪問し、新潟県の取り組みについてヒアリングしました。
新潟県は、最も多くの拉致被害が発生した都道府県であり、解決に向けて専任部署を設けて力を入れて取り組んでいます。

県庁ロビーの幟旗。

県庁ロビーに、拉致問題解決に向けての署名台が設置されています。

県庁ロビーの写真パネル展示。

タクシーにて、横田めぐみさん拉致被害現場へ移動しました。
寄居中学校。
横田めぐみさんは、この中学校の生徒でした。
昭和52年(1977年)被害当日、バドミントン部の練習終了後、友人とともに3人で学校を出ました。

学校の敷地の角。
一人目の友達とここで別れました。
一人目の友達は、この交差点を右折していきました。
横田めぐみさんは、二人目の友達とともに、この交差点を直進(写真の奥の方へ)しました。

この交差点で、二人目の友達と別れました。
二人目の友達は、この交差点を左折していきました。
横田めぐみさんは、この交差点を直進しました(写真の奥の方向へ)。

人家がまばらなわけではなく、住宅が密集しています。
坂の多いエリアです。
真っ直ぐな道路の先には、海が見えてきました。

警察犬による捜査によると、この交差点で、横田めぐみさんの臭いが消えました。
つまり、この交差点でクルマに乗せられたことが推察できます。

上記写真と同じ位置。
道路の向かい側(写真の奥)は、今は新潟大学附属小学校が設置されています。
昭和52年の拉致被害当時は、新潟大学理学部のキャンパスがありました。

新潟護国神社の敷地には、新潟県警が設置した、目撃証言を求める看板が立っています。

横田めぐみさんは、この海岸から北朝鮮のボートに乗せられました。
港があるわけではないので、大きな船が接岸することは出来ません。
従って、沖合まで母船で来て、母船からは小さなボートを下ろして砂浜まで接岸したことが推定できます。
拉致被害当日、オートバイのエンジン音のような爆音が聞こえた、という証言も残っています。
尚、私は、12年前にもこの地を視察しております。
柏崎市
柏崎市へ。
同じ県内と言えども意外と遠く、新幹線を含めて2時間以上かかっての移動となりました。

拉致問題解決に向けて精力的に取り組んでいる、元柏崎市議の三井田孝欧氏にアテンドしていただきました。また、金子裕太議員(鴻巣市)が合流しました。

柏崎中央海岸(海水浴場)。
蓮池夫妻拉致被害現場です。
結婚前の蓮池カップルは、この海岸でイチャイチャしていた時に拉致されました。
昭和53年(1978年)拉致被害当時は、カップルにとっては格好のデートスポットだったそうです。
ここも砂浜海岸ですので、大きな母船が海岸に接岸することは出来ません。
尚、蓮池夫妻は2002年帰国を果たし、今は柏崎市内に住んでいます。蓮池薫さんは、新潟産業大学で朝鮮語・朝鮮史を教えています。

柏崎市 荒浜海岸に移動し、山本美保さん(特定失踪者)の遺留品発見現場を視察。
柏崎市在住で、特定失踪者問題調査会の活動をしている植松氏と合流し、説明を受けました。

荒浜は小さな集落です。
昭和59年(1984年)、山梨県在住で、山梨県内で姿を消した山本美保さんのハンドバッグが、この海岸で発見されました。
この海岸で拉致されたものか、捜査の撹乱のために敢えて置かれたものか、真相は分かっていません。
2004年、「1984年に山形県の海岸で発見された水死体が山本美保さん本人であった」と、山梨県警は発表しています。
しかしながら、山梨県警のDNA鑑定捜査、死体の損壊状況の発表、海流の流れの説明については合理的ではない部分もあります。
ご家族、特定失踪者問題調査会は、山梨県警の捜査に不信感を抱いております。

柏崎市議会に移動し、柄澤議長、眞貝議員と情報交換をしました。
北朝鮮による拉致被害者すべての身柄の奪還に向けて、引き続き活動して参ります。
蕨市にも2名の特定失踪者(北朝鮮による拉致の可能性を排除できない失踪者)がいます。決して他人事ではありません。