靖国神社の春の例大祭

本日2014年4月22日(日)は、靖国神社の春の例大祭でございました。

地元蕨より、靖国神社に遥拝し、祖国を護るために戦った偉大な先人に感謝の誠を捧げました。

あわせて、皇国長久の平和と繁栄をお祈り申し上げるとともに、再び祖国に危機があれば、私もまた英霊の皆様の後に続いて戦う覚悟を新たに致しました。


東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

花巻でわんこそばに挑戦し(45杯食べた)、夏油温泉で汗を流して、仙台で牛たんに舌鼓を打った。

仙台から再び海沿いを福島第一原発に向けて南下する。

仙台空港近く

2014年4月
空港施設や、周辺の倉庫、工場、飲食店、コンビニなどのお店類からは、震災の影はまったく伺えない。
しかし、ちょっと辺りを見回すと、このようなぼこぼこになった橋の欄干、ガードレールのパイプなどが放置されている。

 

下って宮城県の山元町へ。
ここは、蕨市から1名の市役所職員が、復興支援のために派遣されている。

 

山元町立中浜小学校

2014年4月
ここは、全校生徒が2階建て校舎の屋上に避難して、津波の難を逃れた。
この校舎は、1989年築の、新しくて堅牢なものであったことも幸いした。
学校は、2013年3月末に閉校した。
宮城県webサイト内に、この中浜小学校の被災直後の対応と所見をまとめた資料があり、リアルな感じだ。

周囲の集落の人家は壊滅していて、今は何も残っていない。
ところどころで、畑仕事をしている人達がいた。
仮設住宅から、自分の土地に通っているのだろうか。

 

南相馬市へ。

2012年7月にフクイチ近くを訪れたときの記録は、こちら

 

海沿いの道を南下して、最も福島第一原発に近づける場所

2014年4月
おそらく、2年前と変わっていない。
大内新興化学工業株式会社 原町工場がある場所。

 

国道6号を南下して、最も福島第一原発に近づける場所

2014年4月
ここから先は通行証が必要になる。
前でUターンしているワンボックス車も、通行証は持っていないようだ。
福島第一原発で作業するためのトラック、作業員を乗せたバスが、頻繁に行き交っていた。

 

ここまでに至る南相馬市小高地区は、やはりガレキ撤去はあまり進んでいない。
外を出歩く人の姿をまったく見掛けないのだが、人家には洗濯物を干しているところもあるので、住んでいる人もいるようだ。
他方で、被災したまま放置された人家も多数ある。
田んぼは全て放置されているが、津波で流されてきたガレキは、田んぼの中で積み上げられて、未処理の状態だ。

 

吉沢牧場(南相馬市と浪江町の境界線上にある)

2012年7月


2014年4月
写真の右側の、幹線道路は同じ場所で閉鎖されたままだが、左側の、牧場の中に入る道は一部、入れるようになっていた。


2014年4月
行けるところまで入ってみる。
牛(肉牛かな?)がのどかに草を食んでいた。

ここまでに至る場所では、あちこちで除染作業をやっていた。

2014年4月
南相馬市内 田畑を除染作業中。

2014年4月
南相馬市内 杉林を除染作業中。
 
除染作業といっても、要するに、表土を剥がして袋に詰めて、どこか地中深くに埋めるだけだ。
作業をやっていたのは、田畑が中心だったけど、一部では、山林の中で作業をしている姿も見かけた。
今後、全ての地表の除染作業をやる予定なのかな?


2014年4月
バリケード。
写真奥のビニルハウスは、倒れたまま。

 

この地域は、2年前は治安維持のためにあちこちで警察車両が走り回っていた。
未だに、他県から応援に来ている警官・車輌を含む警察の巡回は手厚いが、体感では、密度は下がったような気がする。

 

以上、このシリーズ終わり。


東北被災地巡り その8 大槌町

大槌町へ。

 

大槌町 旧町役場

2012年4月
町長以下役場の幹部全員が津波に被災して、行政機能が麻痺してしまった町。


2014年4月
解体工事が始まっていた。

 


2012年4月
一般家屋の処理は終わっていたが、大きな建物は解体工事待ちだった。
旧町役場の脇には、ガレキの山があった。


2014年4月
あらかた建物の解体は終わっている。
(写真右の建物は、旧町役場)
新たに建物を建て直す動きは、まったく見えない。

 


2014年4月
旧町役場敷地内に立てられていた看板。
大槌町は、再び平野部に家々を建てて住む、という復興計画のようだ。
しかし、新しく人家を建てるような動きはまったく感じられない。


東北被災地巡り その7 釜石

釜石へ。

2012年4月の記録は、こちら

市内に入る前に、ホタテ加工・卸・小売のヤマキイチ商店の工場店舗へ。


2014年4月
ヤマキイチ商店

ここは、先日2014年2月18日に、ILOのシンポジウム「仕事と復興」で、若旦那の講演を聞いた。
講演の中で、一方的にお話を聞いただけの関係だけど、せっかく来たので表敬訪問しようかと思ったが、お休みだった。

 

釜石の港湾部に建つ、市営釜石ビル

2012年4月
ビル1階の郵便局は閉鎖されていた。


2014年4月
ビル1階はガレキを撤去して、駐車場として再利用されていた。 2階は、窓にベニヤ板を張り巡らしてあるので、おそらく、津波を被ったまま使っていない。 3階以上は、普通に使われているようだ。

 


2014年4月
市営釜石ビルの向かいの歩道。
このくらいのものは、撤去されずにそのままになっている。

 

港湾部近くの、東北銀行釜石支店ビル

2012年4月
「×」(解体しないで、の意)のスプレーが書いてある。
窓に貼ったベニヤ板から察するに、2階の途中まで津波を被ったようだ。


2014年4月
なんと、株式会社山元(海運・建設業)のオフィスとなっていた。
元々、銀行の建物は、災害や犯罪対策のために、躯体は頑丈なはず。
東北銀行釜石支店は、震災後2ヶ月間臨時休業した後、別の場所に仮移転し、2013年12月にさらに別の場所に新築移転している。

 

市内の本屋さんビル

2012年4月


2014年4月
建物として使い物になる状態ではないが、スプレーで「×」が書いてあるので、何らかの理由で、解体を拒否しているようだ。

 


2014年4月
これも、廃墟となった建物。
スプレーで「×」が書いてある。
2年前時点では、解体待ちのビルがそこかしこにあったが、それらは一通り解体され尽くしたようだ。
街中には、新しいビルも建っているが、依然として空き地が広がっている。
他方で、このように、何らかの理由で建物オーナーが解体を拒否してそのまま放置されているビルも多々ある。


東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田

南三陸、気仙沼と通り抜け、陸前高田へ。

2012年4月(2年前)の南三陸の記録は、こちら
気仙沼~陸前高田の記録は、こちら

 

南三陸。

ここは、何もなかった。
2年前はガレキだらけだったが、それらはことごとく撤去されていたものの、復興へ向けた動きは伺えなかった。街としての復興プランが決まっていないのだろうか。


2014年4月
幹線道路は、復興工事のためのダンプが引っ切り無しに走り回っていた。
とても埃っぽい。
至るところに、工事のためのプレハブの現場事務所が設置されている。
膨大な復興のための土木系予算が投入されている。

 

気仙沼市内へ。

 


2012年4月 気仙沼警察署 南町交番

2012年4月 左が株式会社小野良組 本社ビル(被害なし)、右が消防署(被害あり、使われていなかった)


2014年4月
写真の道路右側(佐川急便トラックの後ろの更地部分)が、交番跡地。交番の建物は解体されている。
道路左側の、株式会社小野良組 本社ビルの奥の消防署は、解体されていた。

 

気仙沼市内 男山酒造

2012年4月


2014年4月
元々、国登録有形文化財の建物のため、改修をする模様。

 

気仙沼市内の建物

2012年4月


2014年4月
市街地の建物は、解体済みのものもあれば、崩れたまま放置されているものもあった。
何らかの意図があって放置されているのかどうかは不明。
そこかしこに空き地がある。

 

気仙沼では唐桑の宿で、いろいろ現地の人や、ボランティアとして滞在してそのまま居着いてしまった人や、2年長期滞在しているという集団移転コンサルの方などに話を伺う機会があった。

基本的に、観光で来てもらうのは、現地の人としては歓迎だとのこと。
「物見遊山の気分で、被災地に行くのは、被災者に失礼ではないか?」とも思ってしまうが、全然そんなことはなくて、むしろ忘れ去られてしまうのが嫌だし、興味関心を持ち続けてくれる方がありがたいし、旅行してちょっとでもお金を落としてくれればそれがありがたい、とのこと。

気仙沼は、漁業についてはかなり支援は手厚いのだが、それ以外の産業に対する支援が薄く、濃淡あるようだ。
特に厳しいのが、食料品店、飲食業、燃油業などの、地元密着の商売をやっていて、直接被災したわけではない人達らしい。直接被災していないので支援はなく、人口が減っているゆえに商売が厳しい、とのこと。

震災後、東京などに働きに出ていて、地元のために何かやりたいと居ても立ってもいられずに家族を連れて地元に帰って来たものの、ジョブがなくて結局地元で生活を組み立てられず、仙台辺りに再び引っ越してしまうような若者が多いそうだ。

海辺の集落では、古い家(本家)ほど海に家が近く、新しい家(次男以下の分家)ほど海から離れた山の方に建っているものなのだそうだ。
一つの集落の中で、家の場所によって被害があったところとなかったところで別れてしまった場合、コミュニティの中で意識の分断が起こってしまっているケースが多い、とのこと。
仮設住宅に集落ごと仮移転した場合も、元のような形でコミュニティを維持するのはなかなか難しいようだ。
これらの集落コミュニティは、年百年以上かけて自然に出来上がったものだが、絶妙なバランスの上に成り立っているものであって、思いのほか脆く、壊れるときは本当に一瞬だ。

街によって、復興のプランニングのスピード感も違うし、内容も異なるとのこと。
唐桑の宿のおやじは、宮城県はコンセンサス重視で遅く、岩手県はスピード重視だ、と県民性を分析していた。政治家のリーダーシップによるのかもしれない。
後述のように、陸前高田はガンガン復興が進んでいる。気仙沼、石巻などは遅い。僕が感じた印象だが、雄勝のように街自体をかつて住んでいた人が放棄してしまったような街もある。

集団移転コンサルの方は、集落全体の権利関係の調整をしたり、役所との折衝をしたり、というのが仕事なのだそうだ。集落住民全員の合意を取らなくてはならないので調整は大変だが、都会の再開発と違ってヤクザは出てこない点は楽だ、と苦労話を語ってくれた。
小さな集落の中には、老人ばかり5人しか住んでいないような限界集落もあり、せっかく多額のお金をかけて集団移転したところで、10年も経てば住む人が誰もいなくなってしまう、というようなところもあるらしい。
そういう集落を残すことに意味があるのだろうか?という内容のことを言っていた。
都市工学上のコンパクトシティ的な発想で、限界集落を束ねて、効率的に、一箇所に集約するというのも一つのやり方であろう。他方で、「出来るだけ元通りに復興する」というのが、日本国民全体の意志でもある。

 

陸前高田へ。

 

見渡す限り大型の建物以外は何も残っていない無い中で営業していた、仮設ガソリンスタンド

2012年4月

このガソリンスタンドは、2014年4月もこのままだった。

 

キャピタルホテル1000

2012年4月
海沿いにあり、被害を受けた建物。

2014年4月、この建物は解体されていた。
ホテルそのものは、高台に移転して営業を再開している。

唐桑の宿のおやじが、「陸前高田は最も復興が進んでいる、まるで空中都市だ」と言っていた通り、まさにそんな感じに変貌を遂げていた。

 


2014年4月
陸前高田の高台から、海沿いの平野部に長い大型のベルトコンベアが張り巡らされている。
これは、高台から土を持って来て、平野部に盛り土するためのものらしい。
ダンプでちょっとずつ運ぶよりも、この方が効率がいい、ということなのだろうが、本来は常設して使うような設備のはずなので、盛り土の規模がどれほど大きいものか、ということが分かる。

 


2014年4月
大型クレーンがあちこちで稼働している。

 


2014年4月
海沿いの、道の駅。
震災遺構として残してあるようだ。

 


2014年4月
道の駅の中。
散乱したままになっている。

 


2014年4月
道の駅の駐車場に設置された、追悼施設。

この種のものや、小さな追悼の祭壇のようなものは、そこかしこで見かけた。

 


2014年4月
奇跡の一本松。
最上部に設けられた避雷針がシュールだ。
陸前高田は、アバンギャルドな土地柄なのだと思う。

陸前高田は、マスコミュニケーション戦略、戦術が上手い。

陸前高田のように中心部(平野部)が壊滅した街は、南三陸町、大槌町、旧雄勝町、旧牡鹿町などのように、他にも幾つもある。
しかし、被災地としては陸前高田が最も有名である。
奇跡の一本松については、「枯死したにもかかわらず、大金をかけてレプリカを作ることに意味があるのか?」と批判されたが、その前後の挿話も含めて、陸前高田の被災地イメージを広めるのに役立っている。
他の街と比べて受けている援助が手厚いのかどうかは分からないが、結果として、陸前高田が最も復興が進んでいるのは間違いない。

2014年4月
JRドラゴンレール大船渡線 脇野沢駅近く。
線路が埋もれている。
この区間は、鉄道は復旧しておらず。
今は、BRT(バス輸送システム。代行バスとは違う)が運行されている。


東北被災地巡り その5 女川~北上

女川原発は、相変わらず再稼働していない。
原発PR館を一通り見学したが、展示物は2年前と変わらない。
2年前(2012年4月)の見学レポートは、こちら

 

女川市内へ。

2年前(2012年4月)の記録は、こちら

海に近い、標高の低い平野部分は、既に2年前の時点でガレキはあらかた撤去されていた。今でも光景は変わらない。人家は高台に集団移転し、この平野部分の再建計画は、どうやら決まっていないようだ。

 

女川市内の江島共済会館

2012年4月


2014年4月
震災遺構として、解体せずに残してあったのだが、今後、解体する方針が決まったとのこと。

 

硯の名産地であった、雄勝へ。

 

雄勝伝統産業会館

2012年4月


2014年4月
4階まで津波を被ったという建物は、躯体は頑丈なので再利用できそうに見えたが、既に解体されていた。
跡地は、護岸工事のための消波ブロック置き場となっていた。

雄勝は、本当に何もなくなっていた。
あるのは、道路と電柱・電線ばかり。

他の街では、行き交う土木業のダンプ運転手やボランティアを当て込んだコンビニやトレーラーハウス(仮設の飲食店)があったりするのだが、雄勝には本当に何もない。人もいない。

まるで、ここに住んでいた人達が、丸ごと街を捨ててどこかに行ってしまったかのようだった。

 

石巻市立大川小学校

2014年4月
生徒の大多数が津波に飲まれて亡くなり、原因は教師の誘導ミスにあるとして裁判になった小学校。
校舎だけが立ち入り禁止のロープを張られたまま残っている。
周囲には人家や商店が立ち並んでいたのだろうが、今は何もない。

大川小学校がある地域は、平成の大合併で石巻市に併合された、旧河北町。

 

石巻市は、平成の大合併で周辺の幾つかの町を吸収して大きくなった。
被吸収地域では、全般的に、復興が遅れているし、リーダーシップを発揮する人なり団体なりが出てきていない印象を受ける。
旧牡鹿町、旧雄勝町、旧河北町、旧北上町エリアは、ぼろぼろだ。
ここの地域の住民は、石巻市に吸収合併される選択をしたことを悔いているのではないだろうか。


東北被災地巡り その4 牡鹿半島

牡鹿半島へ。

2年前の2012年4月の記録は、こちら


2014年4月
小さな漁港
放置されている。

 


2014年4月
金華山沖では、おそらく松島基地のブルーインパルス(?)が訓練飛行をしていた。

 

牡鹿コバルトライン

2012年4月


2014年4月
相変わらず閉鎖されていたものの、道路改修は進んでいる模様。

 

沿岸の地震でひび割れた舗装は、たいがい修理されていたが、人家がまばらな地域では、舗装を剥がして未舗装ダート状態のままの道路も見受けられた。

 

牡鹿半島は、規模の小さな漁村が多い。
津波の被害を受けた家屋は、ほとんど撤去されていた。
今後、集落をどのように再建していくのか、方針は集落単位で話し合って決めるようだが、高台の森林を切り開いて、集団移転することを決めた集落が多いようだ。
あつこちで、集団移転用住宅地を造成していた。
漁業を営んでいる場合は、海から距離が離れて不便だろうが、仕方ない。