教育政策を考え中(4)様々な説があり、ポジショントークが多い

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4.様々な説があり、ポジショントークが多い

教育政策論に限らず、社会科学における政策論全般に言えることなのだが、相反する学説が乱立している。自分の立場・考えを推進するための学説、すなわちポジショントークが多過ぎて、何が正しいのか、素人がちょっと調べてもワケが分からない。

 

少人数学級制についても、賛否両論がある

蕨市でも「35人程度学級」が行われている。
一つのクラス当たりの生徒数は少なければ少ないほど、先生が一人一人に目をかけらるので良い、と言われれば、何となくその通りかと思う。
少人数学級制は、無条件に、良いイメージがある。
僕もそう思っていた。

ところが、いろいろ調べてみると、教育学の世界では、少人数学級制については賛否両論あるらしい。
否定的理由の代表的なものは、
・学力向上との因果関係はない
・いじめ減少との因果関係はない
・生徒の競争心が減退してしまう
・政策としては、費用対効果が低い(=他にもっと先にやるべきことがあるはず)
といったもの。

 

国レベルでは、

・文科省:積極推進論
→予算拡大、権限拡大をしたいという省益と絡んでいるから。

・財務省:否定論
→財政の無駄な拡大を防ぎたいから。

ということで、文科省と財務省が激しいバトルを行っている。
それぞれのwebサイトに行けば、積極推進論、否定論それぞれの資料が山盛り出てくる。

 

 

ということで、教育政策論については、かなり体系的に突っ込んで調べないと、中途半端な床屋の政談で終わってしまう可能性が多々ある。

(このシリーズ終わり)


教育政策を考え中(3)定量的効果測定をしにくい

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3.定量的効果測定をやりにくい

教育学においては、よりよい教育を目指して、様々な実験が行われている。

社会科学における、この種の実験手法は、シンプルで、

・ある条件だけを変えた複数の集団を用意する
・他の条件は、出来るだけ揃える
・結果を比較する

というものだ。

例えば、学力や性格や家族構成や親の年収が同じような生徒のクラスを2つ用意して、クラスAでは小1から英語を教える、クラスBでは中1から教える(代わりに、小学校では国語に力を入れる)。そして、数年後の学力なり進学率なりを比較する、など。

ちょっと考えてみれば当たり前の話だが、長期間に渡って同じような集団を複数用意する、というのはとても難しい。

 

また、海外の教育学の成果を、そのまま我が国に持ってくることも難しい

・言語の違い
・国民性の違い
・経済・所得レベルの違い
があるからだ。


教育政策を考え中(2)誰もが一家言持っている

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2.誰もが一家言持っている

学校に通ったことがない人はいないし、誰もが教育については一家言持っている。

「自分が子供の時は・・・」、「自分の子育ては、これが上手く行った、あれが失敗だった・・・」といったように、
自分 or 自分の子供の、わずかな事例を元に「こうすればいい!」、「ああすればいい!」と熱く語ってしまう人は多い。

もちろん、自分 or 自分の子供のわずかな事例から得られた教訓が、誰にでも当てはまる訳がない。
条件が違えば、結果も異なる。

どういう訳か、教育政策論は、身近過ぎるテーマであるだけに、個人的好悪と思い込みに基づく、中途半端な素人談義に陥ってしまいやすい

 

また、中には、
「お前は子供もいないし、子育てをしたこともないんだから、教育を語る資格はない!」
などとおっしゃる既婚・子持ちの方もいる。

このような発言をする人は、
・自ら考えることを放棄し
・豊かな心を持っていない
という点で、教育の成果がなかった、教育の失敗例を自ら示していると言ってもいいだろう。

 

ついでに追記すると、一つ前のエントリで「私は球技が嫌いだ→球技なんて学校の体育の授業でやる必要ない」という考えはまさに、自らの個人的好き嫌いだけを元にした暴論の典型例と言えるw

(続く)


教育政策を考え中(1)目標設定をどうするか

さて、蕨市の現行の教育政策についていろいろ調べつつ、今後取るべき教育政策について考え中です。
次回6月定例市議会の一般質問では、教育関連をメインに取り上げるつもりです。
(3ヶ月毎の定例議会では、各議員が各々自由に発言する機会があり、これを一般質問と呼びます。自らの政策案を発表したり、行政に何かを問い質したり、持ち時間35分の中で、テーマフリーで発言出来ます。)

 

教育政策を語る上では、以下のような幾つかの難しさがあります。
(長くなりそうなので、幾つかのエントリに分けて書きます)

 

1.目標設定をどうするか。

(1)子供全体の平均的な底上げを目指すのか?
(2)上位層のエリート育成を目指すのか?
(3)いじめや学級崩壊などの問題の排除を目指すのか?

概ね、(1)と(2)は両立しない。
(2)は、公教育の役割ではないかもしれない。

あるいは、

(1)学力向上を目指すのか?
(2)進学成績(いわゆるイイ学校への進学率)向上を目指すのか?
(3)人間力的なモノの向上を目指すのか?
(4)スポーツの結果、体力の向上を目指すのか?
(5)社会人としての成功を目指すのか?

そもそも学力って何だろう?
テストの成績?偏差値?それ以外の何かか?
社会人なら誰でも知っていることだけど、学校の成績が必ずしも社会で役に立つ訳ではない。かなり比例するけど。
社会で必要な力は、プレゼン力、コミュニケーション力、外国語力、課題発見力、組織マネジメント力、マーケティング力、ビジネス設計力、インターフェース設計力、オペレーション力など。もちろん、これらの全部が必要な訳でもない。仕事内容や立場によって、必要な力は異なる。

イイ学校に進学しても、ロクでもない人、人を傷つけたり社会に害を為す人はたくさんいる。

人間力って何だ?
何となく分かったような分からないようなワードで、こんな曖昧な言葉を、定義せずに使う人は、インチキな政治家くらいだと思っていいだろう。
優しさとか?
美しいモノに感動する心とか?
よく分からない。

スポーツといってもいろいろあるけど、僕はボール(球体)が大嫌いなので(何となく顔に向かって飛んできそうな気がする一種の球体恐怖症)、学校でやらされた野球とかサッカーとかドッヂボールの時間が苦痛でたまらなかった。
人と合わせるのが苦手なので、人と一緒に何かをやる団体競技も嫌いだ。
ランとかバイクとかスイムとか山登りとか、自分と向き合って、自分の身体と対話しながら、自分の限界に挑戦する系は好きだ。
学校のスポーツというと、団体競技が中心になりがちだけど、好き嫌い、向き不向きもあるので、誰にでも野球やサッカーやドッヂボールをやらせるのがいいことだとは個人的には思えない。
あるいは、逆に考えると、もっと子供の頃に団体スポーツを毛嫌いせずにちゃんとやっていれば、僕ももっとまともな社会人になれて、今頃は年収1億くらい稼げるようになっていたかもしれない。

ついでに書くと、小中学校で、例えば宿題を忘れたときに「校庭1周」みたいな罰が昔は存在した。
(体罰に関してうるさくなったので、今は行われていないのかな?)

アレは今でも腹が立つし、間違った教育手法だと思う。
本来、「走ること」は楽しいことである、だからこそ、幼稚園児くらいの子供を広い野原に放り出すと、いつまでも笑い転げながら走り回っていたりする。子供は、ただ走っているだけで楽しいのだ(嫌いな子ももちろんいるだろうけど)。それを罰にするのは間違っている。罰は、全員が必ず嫌がることを設定しないと、意味が無い。

社会人としての成功って何だ?
僕は、社会人としての人の価値は、自分が属するコミュニティにどれだけ貢献できるかによって決まると考えるが、他方で、これは比較論的に他人と比較しても意味はないと思っている。
自分が属するコミュニティに貢献したくても貢献できない立場の人に、人としての価値が無い訳では断じて無い。

年に100万円の所得税を納めている人よりも、年1億円の高額納税者の方がエラいかもしれないが、100倍エラいかというと、そうとも言い切れない。

社会人としての成功って、結局、何だろう?

 

蕨市の現状の目標設定

手元にある、つい先日策定された「コンパクトシティ蕨 将来ビジョン」によると、

第3編 実現計画 第2部 分野別計画 テーマ7 学校教育において、

生涯にわたって自己実現を目指す自立した人間としての力を育むために、家庭や学校、地域の連携を深めながら、蕨市ならではの魅力ある教育活動を展開し、「知・徳・体」の調和のとれた、児童・生徒の育成を目指します。

その下の、施策15 教育内容の充実 として、

1.自ら学び自ら考える児童・生徒の育成
蕨市の学校教育としての目標及び各学校における目標を設定し、その確実な実現を通じて児童・生徒の生きる力を育成します。
(中略)
3.豊かな心と体を育む教育の展開
豊かな心を育む道徳教育や福祉教育、ボランティア体験などを推進します。
(中略)
豊かで健やかな心と体を育む学校部活動の充実に努めます。
(以下略)

となっている。
細かい目標は、もっと下のレイヤないしは学校単位で設定されているようだ。

上記の赤文字は、僕が強調するために色を付けた。
この部分が、重要なキーワードということになるだろう。

少なくとも、
・試験の成績、偏差値、学力重視ではない。
・進学成績重視ではない。

 

この、教育政策の目標設定については、私見を書くのは今のところ差し控える。

(続く)