蕨市が舞台の女子サッカーアニメが、2023年訪れてみたいアニメ聖地に選ばれる

一般社団法人アニメツーリズム協会が選定する「訪れてみたいアニメ聖地88」2023年版に、蕨市が舞台となっている女子サッカーアニメ『さよなら私のクラマー』が、2022年版に引き続き選ばれました。
よかったですね。

個人的には、球体恐怖症でサッカー怖いので、漫画版もアニメ版も見ていない(見られない)のですが、よかったと思います。

 

 

animation

(c)蕨市
令和4年度蕨市当初予算(案)概要より。

↑これは、本年、令和4年(2022年)3月時点の、令和4年度の当初予算説明資料です。
タイトルに(案)という文字が入った資料ですが、その後、3月定例議会において、原案通りに確定しております。

「アニメによるまちおこしの推進」ということで、予算が2百万円ついております。

3月定例議会での行政側の答弁では

2023年版の聖地認定を目標に掲げております。

ということでした。

つまり、この「アニメによるまちおこしの推進」は、今回、2023年版に選定されたことで、達成してしまったことになります。

 

本来であれば、

・来訪者増
・商店街の売上増
・認知度向上

なりの数値目標を定めるべきところです。
「アニメ聖地認定に選ばれること」は、一つのマイルストーンに過ぎないはずです。

 

 

けっこう行政の仕掛ける案件は、このような目標設定が中途半端でナゾなものが多いです。

 

そもそも、ここで言う「まちおこし」が、外向きのまちおこしなのか、内向けのまちおこしなのか?

というのも曖昧ですね。

 

そもそも、広義のまちおこしって、外向けか、内向けか、2種類あると思うのですよ。

外向けというのは、観光振興、商業振興なり、外からの移住者増なりを目的として、市外に住む人達をターゲットとして行うべきもの。
仮に観光振興が目的なら、ターゲットは、インバウンド富裕層か、家族連れか、女子旅か、オタク層か。

内向けというのは、市内に住む住民の満足度向上なり、利便性向上なり、街への愛着の醸成なりを目的として、市民をターゲットとして行うべきもの。

 

ということで、3月定例会で予算案が出てきた時から、この目標設定もターゲット設定も曖昧な「アニメによるまちおこしの推進」企画には不満を抱いていたのですが、今後、厳しく効果検証を求めていきたいと思います。

 

 

 

ところで、

こちらに2023年度版訪れてみたいアニメ聖地88のリストが載っていますが、個人的には、ほとんど知らないアニメばかりですねー。

古いアニメも幾つかあり、エヴァなんか私が大学生の頃、つまり四半世紀前のアニメであります。
釣りキチ三平は、50年前のコンテンツです。どうでもいい話ですが、作者の故矢口高雄氏の別荘を見たことがあります。確か、与論島だったかな?

 

艦これは好きで、聖地巡礼は私も好んでおります。
(アニメじゃなくて、ゲームだけど)

ここのリストに掲載されている、呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府、横須賀鎮守府、大湊警備府は、全て訪れました。

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2021年12月、坊ノ岬。

ちょうど一年前に訪れたのは、ここ。
坊ノ岬沖海戦に関連した慰霊碑がたくさんありました。

 

 

海外まで足を伸ばして、金剛を建造した英国バロー・イン・ファーネスのヴィッカース社のドックも見に行きました。

 

 

是非いつか行ってみたいのは、ビキニ環礁。

核実験の標的艦として沈む、長門、酒匂、プリンツ・オイゲンをダイビングして真近に見られるようです。
このために、ダイビングのライセンスも取りました。けっこう深くに沈んでいるため、更に上級ライセンスが必要なので、まだ道のりは遠い。

 

神通が沈む、ソロモン諸島のコロンバンガラ島にも行ってみたい。
こちらは水深900mとのことなので、ダイビングは不可能ですけど。

 

あと、雪風は、戦後、賠償艦として中華民国海軍に引き渡されて艦隊旗艦も務め、今は、スクリューが、高雄の海軍軍官学校に展示されているらしい。ここは立入禁止。

基地のオープンデイなどの機会があれば、見に行ってみたい。

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2016年5月、海軍軍官学校の門。
普段は、中には入れない。


呉鎮めぐり(2)

hoya_t blog 2014/9/19 : 呉鎮巡り1
の続き。

大和ミュージアムへ。


陸奥の41cm主砲。


陸奥の主錨。

大艦巨砲主義と巨大戦艦が、戦略理論・戦略兵器だった時代、
「陸奥と長門は日本の誇り」と謳われた通り、戦略兵器である陸奥は大国日本の象徴であり、夢と希望を感じる対象だったのだろう。

今はこれに相当するものとしては、核戦略・核兵器が代替されているが、核兵器は、弾頭、大陸間弾道ミサイル、ミサイルサイロ、戦略原潜などの全てを含んだ大きなシステムによって構成されているので、核ミサイルそのものはロマンを感じる対象ではない。


金剛のヤーロー式ボイラー。

なんと、英国ヴィッカース社で建造された当時のもの。
レプリカではなく、本物。
石炭、重油混焼式で、これが36基搭載されていた。
帰国子女の金剛たんの心臓部と考えると、かなーり萌ゆする。
説明書きによると、「近代化改装の折りに取り外され、1993年まで海軍技術研究所、後の科学技術庁金属材料研究所の暖房として使われていた」とのこと。「金属材料研究所」というのは、「金属材料技術研究所」のことだと思うけど、この組織は、今は独立行政法人物質・材料研究機構と組織改編している。1995年につくばに移転しているので、その頃、使われなくなったのだろう。


長門の専任旗。

大和ミュージアム : 戦艦「長門」の「先任旗」贈呈

米兵が持ち帰ったものがテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」に鑑定に出され、買い取った司会の方が寄贈したもの。

 

企画展 : 進水式展

進水式というのは晴れの舞台で、そこで配られた絵葉書、お土産、支綱切断の斧、案内状などが展示されていました。
以下、写真は一部だけ。


比叡の支綱切断の槌と鏨。
さすが御召艦。


天龍の進水式で配られた絵葉書。
俺の名はてんりう・・・フフフ怖いか?


飛龍の絵葉書。
飛行甲板の縦縞が美しい。
日の丸が何故描いていないのかというと、味方の誤着艦を防ぐためにミッドウェイの時に初めて描かれたものだったので、進水時にはなかったらしい。


特殊潜航艇海龍。

 

呉市内の遺跡など

大和ミュージアムと、海のくじら館(海上自衛隊史料館)を出て、市内を散策。

呉駅近くの引き込み線。
詳細不明。
写真左手前側は、線路は切れ、マンションの敷地に通じている。
後で調べたら、海軍臨港鉄道線というらしい。
参考) 三十糎艦船連合呉支部 : 写真館 宝町(呉駅周辺)


呉下士卒集会所。
今は海上自衛隊呉集会所。
建替計画があるらしい。


入船山公園へ。

あれっ、この童子像、どこかで見たことあるかも?
蕨市立図書館の庭にあるものと同じだ。
今初めて知ったけど、せんと君も同じ作者の藪内佐斗司氏の作品らしい。


入船山記念館へ。

東郷平八郎元帥の自宅離れ。
大尉時代に呉鎮守府に赴任していた時に住んでいた家らしい。


呉海軍工廠造機部の庁舎屋上につけられていた時計。


呉鎮守府の立哨小屋。


呉鎮守府の火薬庫。


呉鎮守府長官公邸。
表の応接空間は洋風。裏の居住空間は和風というハイブリッド。

 

重巡青葉の遺物と遺跡


せっかく呉まで足を伸ばしたので、いろいろ見て回りたかったのだが、今回はあまり時間がなかったので、呉市警固屋地区の、青葉の大破着底地点のみ訪れた。

青葉は、ルソン島沖で大破後に修理のメドが立たないままこの地で呉空襲を迎え、浮き砲台として奮戦し大破着底した。

石碑の文字は、中曽根康弘元首相の揮毫によるもの。
海軍で最初に配属されたのが青葉の主計だったらしい。
軍艦の主計というと、食事担当のイメージが強いけど、総務周り全般の中間管理職という感じだろうか。


青葉の進水式での支綱切断斧。
すごく綺麗だな。
(大和ミュージアムにて。)


大破着底後の青葉の写真。
(大和ミュージアムにて。)


青葉の20cm主砲。
(九十一式徹甲弾の奥)
説明書きによると、サボ島沖海戦で大破した後、呉海軍工廠で修理を受けた折りに取り外され、そのまま倉庫に保管してあったらしい。新品と交換して、不要になった部品として放置されていたということか?

(大和ミュージアムにて。)

各艦の大破着底地点は、このサイトが情報が充実している。
ヲタにつける薬なし : 艦娘を偲ぶ旅。帝国海軍終焉の地、呉で最期を迎えた艦娘の大破着底地点へ行ってみた。


呉鎮めぐり(1)

さて、先日の以下のエントリに書いたように、8月末の広島土砂崩れ被災地を見学した。
その夜は、広島市内に宿を取り、原爆ドームや平和記念資料館などを見学しつつ、翌日は復路飛行機の時間までに、帝国海軍呉鎮守府の遺跡巡りを致した。
hoya_t blog 2014/9/4 : 広島土砂崩れ被災地見学

尚、遺跡の情報は、こちらのサイトが充実しており、参考にさせてもらった。
さざなみ壊変 : 艦これオンリーと一緒に回りたい呉・江田島の鎮守府&戦争遺跡まとめ

 

まずは、市内を通り過ぎて、アレイからすこじま公園へ。
ここからは、現役の海上自衛隊艦船がたくさん見える。


現役の潜水艦桟橋。

道路を挟んで海上自衛隊第一潜水隊群オフィスと歩道橋で繋がっている。


まるゆの運貨筒か!?

そんなバカな。
イラストでは球状に描かれることが多い運貨筒だが、実物は、曳航するものなので、筒状(潜水艦のような細長い形)だったらしい。


海上自衛隊の護衛艦と潜水艦。


旧潜水艦桟橋。

今は使っていないらしい。
遊覧船?みたいな小さな船が係留されていた。


旧潜水艦桟橋のトロッコレール。
曲がっている。


魚雷積込みクレーン。

なんと、中に入ることが出来る。


立派な石組み。


あぶくま型護衛艦とね
しらね型護衛艦くらま

こうして並べると同じくらいの大きさに見えるけど、基準排水量はそれぞれ2,000トンと5,200トン。


アレイからすこじま公園から振り返ってみると、赤レンガの立派な倉庫。
呉海軍工廠の建物跡。
工場?倉庫?
真ん中だけ色が違うけど、戦後に建て直したものらしい。
今は、呉貿倉庫運輸株式会社の倉庫。


アレイからすこじま公園の公衆トイレ。
やっぱり「提督」の「T」なんだろうか?


呉市内方面に向かって歩く。

呉海軍工廠は、今は石川島播磨重工業の工場になっている。
戦前からの建物もたくさん残っている。


呉海軍工廠造船部庁舎。
真ん中の赤レンガの建物。


呉海軍工廠造機部庁舎。


今も民間の船がここで造られている。


呉海軍工廠ドック跡。
今はドックは埋め立てられて、平場の工場として使われているらしい。
上モノだけは当時のもの。

「大和のふるさと」と書いてあるが、大和だけではなく、多くの軍艦がここで造られた。
おそらく長門や赤城もここだと思う。


歴史の見える丘公園の戦艦大和の塔。
狛犬の如くそびえ立つは、
左は長門の41cm主砲徹甲弾、
右は大和の46cm主砲徹甲弾。

 

長くなったし、これから打合せなので、一旦ここで切ります。

(続く)→
hoya_t blog : 呉鎮巡り2


戦艦三笠を見に行ってきた。

先日、ふと思い立って、横須賀に戦艦三笠を見に行ってきました。
日露戦争における、帝国海軍連合艦隊の旗艦です。

何気に、行くの初めてです、そもそも、横須賀の街自体が、行くの初めてでした。(バイクで通り過ぎたり、山の中を走ったことはありますが)
JR横須賀駅、京急横須賀中央駅、どちらからも歩いて10分くらい。

かなり面白いものでしたので、おすすめします。
小学校とか中学校の遠足で行くと面白いんじゃないかな!


戦艦三笠と東郷平八郎司令官像。


後部甲板。
デッキは木製。


屋根の下のこの部分は、建造当時そのままのもの。
分厚くてしっかりしたチーク材。


通信室。
通信機器がシンプルなですね。
当時は電信(モールス信号)のみ?電話(音声)は無し?


煙突。
よく考えてみたら当たり前ですが、当時の燃料は石炭。
このあたりは、全てレプリカだと思います。


操舵輪と羅針儀。
これは、日露戦争当時のものだそうです。


艦橋。
艦隊司令長官、艦長、参謀が立っていた場所にパネルが打ってあります。


30cm主砲。
ハリボテのレプリカ。
すごくでかい。


東郷平八郎司令長官直筆の書。


東郷長官の手帳。
小さくて可愛らしい。鉛筆書き。


東郷長官の双眼鏡。
カールツァイス製。
目を当てるところが4つあるけど、何でだろう?
左右それぞれが単眼鏡としても使える仕様なのかな?


当時のカメラ。
幾つか残っている当時の写真は、すべてこのようないかついカメラで撮影されています。


測距儀(レプリカ)。
真ん中から覗く。左右それぞれの端にレンズが付いている。左右の視差角で距離を測定する、という仕組みらしい。1万mくらいまでしか測れないとのこと。


旅順港閉塞作戦への志願書。
ロシア艦隊が旅順港からなかなか出てこないので、夜陰に乗じてボロ船を港の入口に沈めようとしました。この作戦は、3回にわたって行われ、失敗に終わりました。
2千人の志願者の中から77人が選抜されました。


模型コーナーがありました。
時代を下って、大東亜戦争時代のものや、現代の海上自衛隊の艦船のものも展示されていました。
一番手前は、夜戦バカの軽巡川内。


二水戦の旗艦、コロンバンガラ島沖夜戦で武勲を上げた川内型軽巡神通。
探照灯を敵に当て続けて自ら囮となり、艦体が真っ二つに折れてメイン部が沈没した後も、前部主砲は完全に沈む瞬間まで砲撃を続けて奮戦しました。


球磨型軽巡北上。
奥が初期型。
手前が、重雷装艦に近代化改装後のハイパー北上さま。


金剛型高速戦艦榛名。
はい、榛名は大丈夫です!


DDH-181 護衛艦ひゅうが。
ヘリ空母です。


幕僚事務室。
クラシカルですね。


士官室。
調度品は豪華で、機能性よりも装飾性を重視しているかのような印象も受けます。


長官室。
広い個室です。


長官浴室。
専用のトイレ・風呂があります。
尚、艦長も専用の個室、浴室を持っています。


長官公室。
会議室として使った他、来客との交渉もこの部屋を使ったとのことです。


三笠公園の敷地内には、何と!D51型蒸気機関車型の災害用飲料水備蓄タンクがありました。
本物ではなくて、ハリボテです。


給水口。


湊には、海上自衛隊の潜水艦が止まっていました。
(艦名不明)


米国海軍ミサイル駆逐艦フィッツジェラルド。


DDG-171 はたかぜ型護衛艦はたかぜ


戦艦大和の非理法権天

さて、みんなが大好きな艦これにおいて、試みに初めて大型艦建造を回してみたところ、なんと、出現率10.0%の戦艦レシピであるにもかかわらず一発で大和が出た!


戦艦大和(c)DMM.com

これは超嬉しいです。

戦艦大和といえば、Lv60で改造すると、左足のニーハイに「非理法権天」の文字が入ることが知られている。これは、大東亜戦争末期の菊水作戦において沖縄に海上特攻に向かう戦艦大和に「非理法権天」の幟が掲げられていたという史実に基づいている。

 

「権力・権威が法に優越する」っておかしくない?

私は、この「非理法権天」という言葉の意味がよく分からなかった。

wikipediaの解説によると、

非理法権天:
「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。

ということなんだけど、
「法よりも権が上」っておかしくないかな?

少なくとも、明治以来の近代的法観念に反する。

 

非理法権天というコピーの起源

ところで、この言葉、楠公が掲げたものだという伝説を私も信じていたのだけど、wikipediaを改めて読んでみると、どうやら楠木正成が唱えたというのは江戸時代の作り話らしい。
四書五経に起源を持つ言葉ではないみたいだ。
いつ頃、何の目的ででっち上げられた言葉なのかも分からない。

大和に掲げられた幟は、結局のところ、「天が見方をする、正義の側に立つ我々が負けるはずがない」という、国内向けのプロパガンダのキャッチコピーと考えるのが妥当のようだ。
(※ プロパガンダが悪い訳ではない。何らかの政治目的遂行の為の手段としてプロパガンダを用いるのはいつの時代も有効である)

 

非理法権天の現代的解釈

しかし、このコピー、改めて噛み締めてみると、なかなかに含蓄がある。

近代的法観念が出来上がる前は、三権分立は成立していなかったし、法は権力者が好き勝手に変えることが出来るものだった。
その点において、たしかに「法より権が上」だった、とも言える。

明治維新後に近代的法観念が成立すると、建前上は「権よりも法が上」になった。
「権」を政治権力と解釈するならば、権力が道理に反することは出来ないという点で、「権よりも理が上」になった、とも言える。→つまり、非権理法天。
あるいは、「権」を権威すなはち立憲君主制下の天皇と解釈するならば、明治憲法下では依然として「法より権が上」であったものの、昭和憲法下になって「権より法が上」になった、という言い方も出来るかもしれない。

 

翻って現代の我が国を眺め回すと、「多数決は正しい」という民主制の意思決定方法の一つを根拠に、時の権力が、徹底的な議論、少数意見の尊重をせずに、自らの意見を強引に通すこと(=国会における強行採決)もしばしば起きている。
先日の、自公連立政権における特定秘密保護法の強行採決は、まさにそれだった。
参考:hoya_t blog : 秘密保護法案の強行採決に考える。(2013/11/26)

その点において、「民主的で正統な手続きに基づく権」が法を自由に作り替えられる、つまり部分的には「法よりも権が上」というのも、現実である。

 

天が最上位。この世に悪が栄えた試しはない

しかしながら、あくまでも最上位は天である。

日本人は、万物に神が宿るという、原始的なアニミズムをベースとする神道と仏教をごちゃごちゃに信仰し、結果として他者の価値観に対して極めて寛容な考え方を持っているが、それでもなお、天(=一神教的な絶対的な価値、絶対的な正義)がどこかに存在すると信じている。

我が国においては、神武以来2674年の歴史の中で一度も悪が栄えたことはなかった。
我が国以外の世界史においても、悪が栄えたことは一度もない。
「栄えたことはない」というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも後に淘汰されて、歴史の裁きを受けている。

「お天道様(=太陽、すなはち絶対的な価値、絶対的な正義)が見ている」という考え方は、時代や政治制度が変わっても、我が国に通底する考え方である。


天津風艦長の本読みました。


森田友幸, 2004, 『25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり』 , 光人社

 

さて、みんなが大好きな艦これにおいて、来月のアプデで駆逐艦天津風が実装されるらしいので、どんな艦なのか調べているうちに、この本にたどりついた。

 

陽炎型駆逐艦9番艦天津風は、後に駆逐艦島風に採用される高温高圧ボイラーを試験的に搭載していた。天津風の最大速力は35ノット、島風は40ノット。この高温高圧ボイラーは、商船改造空母飛鷹、隼鷹にも搭載された。

 

島風、飛鷹、隼鷹と陽炎型駆逐艦雪風、不知火で艦隊を組んでみました。 (何故かついうっかり軽巡川内も入ってしまった。)
zekamashi(c)DMM.com
(c)DMM.com

 

本書は、天津風の最後の艦長である森田友幸大尉の手記である。

 

当時、駆逐艦艦長としては25歳という年齢は、帝国海軍の中でも最年少だったようだ。今の海上自衛隊で、最早で25歳でどこまで出世できるかどうか分からないが(期間1年間の幹部候補生学校を卒業するのが23歳として、その時点で三尉)、護衛艦の艦長は二佐以上のはずなので、25歳で艦長は無理だと思う。

 

森田艦長がシンガポールにて艦長を拝命したときは、天津風は艦首を破断して、応急艦首をつけたのみの状態で、内地に回航して本修理をせざるを得ない状況だった。

 

天津風は、油などの様々な物資を、シーレーンを通って内地に運ぶ商船コンボイの護衛としてヒ88J船団に、駆逐艦、海防艦数隻とともに編入される。

 

天津風が速いと言っても、コンボイは荷物満載の商船のスピードに合わせて10ノットくらいで進む。シンガポールを出発したヒ88J船団は、米国の航空部隊と潜水艦の攻撃を受けて商船が全滅して失敗。 次いで天津風は、香港にて同じように組織された商船コンボイ、ホモ03船団に編入されるが、これも同じように米国に攻撃されて商船は全滅。天津風は敢闘して沈没は免れたものの、修理不可能なダメージを受けて、厦門にて自沈処分することとなった。

 

本書は、戦後数十年を経てから認められたもので、それだけに、かなり艦長の個人的考えが率直に書いてある。

 

 

戦略レベルで、大艦巨砲主義、艦隊決戦主義に固執した失敗

既に言い尽くされたことではあるが、マレー沖海戦において史上初めて航空戦力のみで当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを含む英国東洋艦隊を撃破し、大艦巨砲主義に終焉を告げさせしめたにもかかわらず、時代遅れの大艦巨砲主義、艦隊決戦主義に固執してしまった帝国海軍上層部を批判している。

 

個人的な考えだけど、 艦隊決戦にはロマンがあり、航空戦は飛び道具を使った、あくまでも補助的なものであり、どちらかと言えば邪道、という考え方があったのではないかと思う。

 

これは、日本人のメンタリティに照らし合わせると、何となく理解できる。

 

織田信長が長篠の戦で我が国史上初めて鉄砲を使った戦いを行い成功をおさめたが、後に続いて鉄砲兵力の増強に努める武将が出てこなかったのは何故なのか?

 

やはり、鉄砲を使った戦いは、あくまでも補助的なものであり、どちらかと言えば邪道、という考え方が支配的だったからだと思う。

 

一対一の騎馬戦の方がかっこ良くてロマンがあるし。 戦国時代の各武将は、長篠の戦の情報を集めて正確に分析し、鉄砲を使う戦い方が効果が高いと理解しつつも、ロマンを求めて己の美意識に酔いがちで、従来の戦い方を捨てることは出来なかった。

 

大東亜戦争における帝国海軍上層部も、航空戦、潜水艦戦が効果が高いと理解しつつも、従来の戦い方を捨てることは出来なかった。

 

戦術レベルでも、対航空機戦、対潜水艦戦への備えをまったくしていなかったことの失敗

トップや幹部連中が愚かでも、バカげた命令指図をてきとうにこなしつつ、現場レベルで創意工夫していつの間にか改善改良を加えていくのが、日本の組織の優れたところ。

 

大東亜戦争当時も、帝国海軍の現場レベルでは、対航空機戦、対潜水艦戦の備えをしないことには、一方的にやられるばかりで話にならないことは分かっていた。

 

ヒ88J船団、ホモ03船団が組織された当時、シーレーンの制空権は既に敵方に握られており、敵方の潜水艦もうようよしていた。 しかし、天津風を含む帝国海軍の護衛艦隊は、航空機に対しては、レーダーを積んでおらずに目視のみ(レーダーは1930年代に実用化されている)、武器はまともな高射砲はなく機銃中心、沿岸の基地からの航空機による空対空の支援もほとんど期待できず、高高度爆撃に対しては為す術無し、という状況だった。著者は、魚雷を空に向かって発射できたらいいのになーと思った、と書いている。潜水艦に対しては、ソナーは無く(ソナーも当時は既に実用化されている)、敵方の潜水艦がほんの一瞬浮上して潜望鏡が海面に浮かぶのを目視で探すことだけしかできなかった。武器としては爆雷は持っていたが、勘で投げるだけ、みたいな感じだったようだ。

 

対航空機戦、対潜水艦戦ともに、道具がなければ訓練もしておらず、これでは相手にならない。 どんなに現場が優秀でモチベーションが高くても、そもそも道具がなければダメだ。 著者は、ヒ88J船団もホモ03船団も、失敗するべくして失敗したと、作戦を立てた上層部を批判している。

 

古い考えに固執してしまった原因

私見だけど、 当時の帝国海軍のように、状況の変化を正確に理解しつつ、間違っていると分かっていながらロマンを求めて時代遅れの古い考えに固執してしまう失敗は、我が国の様々な組織で日常的に起こっているし、今後もなくならない、と思う。

 

国民性とか民族性みたいなものに根ざすものは、100年、200年単位では変わらない。

 

どうすればいいか?

 

(これは国民性、民族性とは関係ないが、)人は、年を取ると、新しいものを理解出来なくなってしまう。

 

これは、知性とかその人の努力が足りてる/足りてないとは関係ない。

 

そもそも、年を取ると、誰でも、新しいものを理解出来なくなる。 世の中の大きなトレンドが変化しているという事実を感じ取ることは出来るし、新しいテクノロジと、それを背景にした新しい思想、方法論が生まれている、ということまでは理解出来る。しかし、その中身を理解することは出来ないし、ましてや、それを使いこなすことは出来ない。

 

例えば、私は、ネット業界のマーケティングと事業開発が本業なので、一通り業界トレンドはおさえるようにしているけど、実は未だにソシャゲのどこが面白いのかよく分からないんだよね。たぶんこれからも理解できることは無いと思う。 90年代末に勃興したネット業界は、私の世代がほぼ最高齢くらいで、今、中心的に活躍している世代は私よりはるかに年下の世代なので、やっぱりライフスタイルも考え方も全然違う。 ガンホーのパズドラのどこが面白いのかさっぱり分からない。 サイバーエージェントのガールフレンド(仮)はかろうじて面白さが理解出来るけど、あれはソシャゲというよりもギャルゲーの範疇で捉えるべきものだと思っている。

 

既得権が存在しないネット業界であれば、年功序列要素は皆無で、リーチとかユーザ数とか売上高とかの数字が全てである。お金だけではなく、世の中にどれだけインパクトを与えたか、人々の暮らしを変えたか、ということも高く評価される(例えば、twitterなんか未だに赤字だけど、社会を良い方向に変革したサービスだとしてとても高く評価されている)。これらはすべて定量的に評価できる。

 

新世代が数字の結果を上げていれば、自ずと結果を出せない旧世代は舞台から退場していくことになる。

 

しかし、定量的なKPIを持っていない領域であれば、ましてや年功序列要素がある領域であれば、世代交代は起こりにくい。特に官僚組織はこのようになりがち。

 

知恵は蓄積していくし、年を取れば取るほど、おおむね深まっていく。
(退化していく人もいるとはいるけどねw)

 

しかし、知識は理解できないものはどんなに努力しても理解できないし、使いこなすことは出来ない。

 

旧世代にできることは、新世代の邪魔をしないようにすることだけだ。

 

一般的に「知識はお勉強すれば学べるけど、知恵は経験を積んで体得していくしか無い」と思われているけど、実はこれは逆であることが分かる。

 

知恵は、逆に言うと、経験さえ積めば年齢に関係なく体得するすることができるし、あるいは、知恵を持った人物を参謀/顧問/社外取締役/メンター/相談役などの形で雇って、適宜相談して分けてもらえばいい。

 

しかし、テクノロジに関する知識は、分からない人はどんなに努力しても分からない。それを理解して使いこなすためには、センスが必要だ。

 

たぶん、よその国民、民族では、力を持っている旧世代が、自ら身を引いて(あるいは何らか別の方法で)優秀な新世代に世代交代していくメカニズムを内在的に持っているのだと思う。

 

我が国の組織は、これを持っていない。

 

この辺り、比較文化論的な視点で、よその国民、民族ではどうやって解決しているのかを調べて、うまく日本に取り入れることができればいいのにな、と思いました。

 

と、ここで、日露戦争当時の秋山真之の年齢を調べてみたら、なんと!36歳だった。 我が国の官僚組織でも、優秀な若手を登用することが出来ない訳ではないんだな。