県道川口蕨線(南町工区)無電柱化の説明会

昨日、令和7年(2025年)9月28日(日)、南町公民館にて、さいたま県土整備事務所による、無電柱化の説明会がございました。

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2回開催されたうちの、2回目でした。

 

参加者は、6名ほどで、県道沿いに住居・店舗がある方が主のようでした。

 

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県道川口蕨線の無電柱化推進は、私も、須賀敬史 前県議も、一般質問等において要望し続けてきた事業です。

着々と進捗している点は嬉しく思います。

県道沿いの方には、変化に対する不安もあるかと思いますが、防災面は強化され、歩道はすっきりして歩きやすくなり、景観も良くなります。

 

スケジュール的には、完了まであと10年弱といったところです。

 

解説を動画で作ってみました。


電気ひげ剃りが劇的に進化していた

もう35年間くらい、手剃り派だったんですよ。

 

社会人2年目くらいの時に、ふと思い立って、回転式3枚刃の電気ひげ剃りを買ってみたことがあります。たしか1.2万円くらいで、当時としては中級ラインのやつだったと思うのですが、これがさっぱり使い物にならず、ほとんど使わずに放置して、引っ越しの時に捨ててしまいました。

電気ひげ剃りには、人によって向き不向きがあり、自分のひげ質は電気髭剃り向きではないのだろうと思ってきました。

 

 

手剃りだからといって完璧に剃れるわけでもなく、フェイスライン、鼻の下は、順剃りだと青々と剃り残しが残ってしまうので、逆剃りするしかなかったんですよ。

逆剃りは肌によくない、と言いますし(個人的には、35年間、逆剃りし続けてきたので、もうこれが当たり前になっていて、今さら何とも感じませんけど)、鼻の下、アゴのラインからひげ剃り時に出血して、タオルを赤く染めるのも日常茶飯事でした。

何より面倒だし、血が出るのもイヤなので、終日こもって作業する日や、旅行のときなんかは、ひげを剃らないこともしばしばありました。

 

 

しかしながら、ここ数年、あちこち白髪が増えてきて、もみあげからフェイスラインにかけてのひげも、だいぶ白くなってきたんですよ。

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白毛まじりの無精ひげって、我ながら、すごく汚らしく、みすぼらしく見えるんです。

密かに、面倒だけど何とか出来るものならば、何とかしたいと思っていました。面倒だけど。

 

 

 

 

価格.comの記事を読んで、持ち手が無くて、ずんぐりむっくりしたかわいらしいデザインに惹かれ、このくらい小さければ、旅行の時に持ち歩いても苦にならないなと思い、ふと思い立って、30年ぶりに電気ひげ剃り買ってみたんですよ。

 

Panasonicのラムダッシュパームイン

往復式の5枚刃です。

ES-PV3AとES-PV6Aは、筐体の素材が違うだけで、中身は同じです。

私が買ったのは、3Aの安い方ですね。それでも、3万円しました。

 

 

もうね、これ使ってみてびっくりですよ。

35年間、苦行のように毎朝手剃りし続け、血を流し続けたフェイスラインと鼻の下が、あっさりと綺麗に剃れました。

まあ、完璧に剃り残しが無いわけでもないのですが、それは手剃りでも同じことなので、もはやこの年齢ではそこまで細かいことは気にしません。

 

 

すごく満足です。

30年間の生活家電の進化ってすごいですね。

思ったよりも手に取ったときはズシリと重いのですが、コンパクトではあるので、旅行の時も持ち歩くと思います。

アフィリエイトはやってないので、特に誰かにオススメするわけじゃないですけど、なんか、あまりにも感動したので、ここに記します。

 

 

最近、3枚刃の廉価版も出たみたいだけど、違いは分かりません。こっちは使ったことないし。

 

 

ちなみに、自民党県議団の面々の間では、ひげ医療脱毛が流行ってるみたいですね。

毎朝の貴重な数分間が節約できますし、ツルツルになります。

アリっちゃあアリだと思います。

 

ところで、「ヒゲの隊長」佐藤正久 前参議院議員(先の選挙で落選させてしまったのは痛恨の極みです)は、人道復興支援活動として陸上自衛隊イラク派遣の際に、現地の方々と交流を深め、信頼関係を築くためにひげを伸ばしたとのことです。

中東に駐在するならば、ひげを伸ばすことは、必須ではありませんが、伸ばした方が良い状況も多いようです。

私個人的には、(当面、予定はありませんが、私自身の将来のキャリアプランを考慮した場合)地方議員リタイア後に中東に出張、駐在する可能性もゼロではありませんし、ビジネスチャンスがあれば例え火の中、水の中、地の果てまでも駆けつけるという商社マンとしてのスピリットを生涯大切にしたいと思っているので、ひげ永久脱毛はやるつもりはありません。


八潮市道路陥没事故は、運転席引き上げを完了

八潮市における、下水道管路破損による道路陥没事故において、行方不明となっていたトラック運転手さんの身柄が救出され、お亡くなりになっていることが確認されました。

衷心より御冥福をお祈り申し上げます。

20250514 八潮市道路陥没事故現場

令和7年(2025年)5月14日(水)には現地を訪れました。

現場の交差点から200mほどの地点にバリケードが設けられ、それ以上は近づくことはできません。

大型クレーンが複数台稼働している様子が伺えます。トラックなども頻繁に出入りしていました。

 

尚、SNSにおいて、「近辺では下水臭が酷い」という投稿をみかけたのですが、少なくとも、200mほど離れた地点では、全く感じませんでした。

 

 

昨日、令和7年(2025年)5月16日(金)には、トラック運転席の運び出し作業が行われました。

これをもって、一連の救出作業は全て完了し、埼玉県災害対策本部は解散致しました。

 

 

今後は、原因究明・復旧に注力していくことになります。

 

埼玉県の下水道インフラの点検は、定められた点検基準・手順に従い、適切なタイミングで行われてきました。

それでも下水道管破損事故が起きてしまった事実は、従来の「点検基準・手順」に改善の余地がある可能性を示唆しています。

原因究明次第、点検基準・手順の見直し検討を含め、速やかに再発防止策を講じるべきところです。

 

 

県議会においては、本件に係る特別委員会を設置し、集中的に審議してくべく準備中です。


2025年3月 東日本大震災被災地巡り 牡鹿半島

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問して定点観測するシリーズ。

 

牡鹿半島を訪れた過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その4 牡鹿半島

2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島

 

 

牡鹿半島の、防災集団移転促進事業による、高台移転団地

リアス式海岸から成る牡鹿半島は、入り組んだ小さな入り江が多く、平地が狭いために、大きな集落は発展しませんでした。仙台からもクルマで2,3時間はかかり、遠いために観光地としても発展しませんでした。漁業を生業とする、小さな集落がほとんどだったようです。これらの漁業集落では、人家は漁港の近くに密集して建ち並んでいました。

そして、大震災では、それぞれの集落が壊滅的な打撃を受けました。

 

 

これらの漁業集落は、防災集団移転促進事業によって、高台の山の中を切り開いて造成した新しい土地に、集団移転しています。

コンパクトシティ的な発想によって集落が集約化されることはなく、それぞれの集落がそれぞれ高台移転しました。

 

国庫補助100%による高台移転住宅は、その後、今日では、多くが限界集落化している経緯については、先の記事にて解説した通りです。

 

実際、どんな感じなのか?

牡鹿半島の高台移転住宅の現在の姿を、見に行ってみました。

 

 

※以下、写真に個人宅が写っているために、集落名は記載しません。

 

 

高台移転住宅その1

2017年5月に写真撮影した場所を再訪してみました。

201705_牡鹿半島の新しい住宅街

2017年5月

新築住宅を建設中でした。

202503 牡鹿半島

空き地もなく、家々は、一通り建ち並んでいます。

真新しいニュータウンといった趣です。人家の数は13軒ですが、公園もあり、広々とした造りです。

 

 

高台移転住宅その2

202503 牡鹿半島

高台に登ったところに新しい高台移転住宅の団地が造成されています。後背の山の姿を見れば分かる通り、木を伐り、山を削って造られています。

202503 牡鹿半島

住宅地の中に入ってみます。

ここも、空き地はなく、広い敷地に大きな家がゆったりした造りで建ち並んでいました。家のサイズや、クルマの数などが察するに、ほぼ全てがファミリー物件です。

 

 

高台移転住宅その3

202503 牡鹿半島

手前の建物は、この集落の集会所です。

202503 牡鹿半島

コンクリート敷の駐車場と家屋の隙間の地面からは雑草が茂り、空き家となっていました。

しかしよく見ると、この写真の家々は、同じ形、サイズなんですよ。

注文住宅というよりも、建売分譲住宅だったのかもしれません。推測するに、サイズが小さいので、高齢者のみの夫婦・もしくは独居の世帯向けの住宅だったのではないでしょうか。

 

 

以上、3つの高台移転住宅の集落を見てきましたが、あちこち空き地だらけ、空き家だらけといった状況ではありませんでした。

 

 

捕鯨の街、鮎川

牡鹿半島の中で最大の集落、鮎川。

ここは、平成の大合併によって石巻市に吸収される前の牡鹿町の町役場がありました。

捕鯨の街としても有名です。

 

202503 牡鹿半島 鮎川

かつての空中写真を見ると、震災前は港の際まで人家が密集していたようです。

今は漁業関連施設、捕鯨をテーマとした博物館などがあるのみで、人家はありません。

 

202503 牡鹿半島 鮎川

高台にある住宅地は、おそらく被災しなかったものと思います。

 

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2012年4月の様子

202503 牡鹿半島 鮎川

2025年3月現在の様子

写真左奥の、高台の大きな建物は、石巻市役所 牡鹿総合支所。合併前の牡鹿町役場でした。

手前の平地部は、がらーんと空き地が広がっています。

手前部分は、「健康づくりパーク」という名前のパターゴルフ場となっておりますが、周辺の土地は市有地ですが、石巻市は、貸付けまたは売払いの募集を行っています。借りても買ってもどちらでも対応可能なようです。

借り手も、買い手もいない、といったところでしょうか。

 

202503 牡鹿半島 鮎川 第十六利丸

港には、捕鯨をテーマとした博物館があり、捕鯨船の第十六利丸が展示保存されています。無料で公開しており、中には入れないものの、デッキまでは上がれるようでした。訪問した時間が少し遅かったために、デッキに上がれなかったのは残念。


2025年3月 東日本大震災被災地巡り 石巻市 南浜町・門脇町地区

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地を訪問するシリーズ。

 

石巻市中心部を訪れた過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その3 石巻

2017年5月に訪問した時(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻

 

 

南浜地区と門脇地区の被災状況の概要

海岸からは、800mくらいは平らな土地が続いています。

震災前は、南浜町、門脇町ともに住宅が密集して立ち並ぶ、住宅街でした。石巻市立病院も南浜町に所在していました(今は石巻駅前に移転)。

ほぼ全域が津波をかぶり、建物はほぼ大破し、数百名規模の死者を出しています。津波によって流されたガレキに引火して、大規模な火災も発生しています。

 

今日では、南浜町においては、人家はゼロであり、居住人口はゼロです。門脇町も、居住人口は減りました。

南浜町は、ほぼ全域が石巻南浜津波復興祈念公園という、静かで広い公園になっています。

 

 

旧 門脇小学校の被災状況

門脇小学校は、海岸からは800mくらいの後背の丘のふもとに位置していますが、高さ1.8mの津波がここまで押し寄せています。

ガレキが引火して火災が発生し、3階建て校舎の3階まで火が燃え広がりました。

 

後背に山が位置していて避難しやすいという地理的条件、日頃から訓練を重ねていた成果により、発災時に学校にいた生徒・教職員の人的被害はゼロでした。

(下校途中の低学年児童が7名、犠牲になっています)

 

前述のように、南浜町、門脇町の居住者はほとんどいなくなったため、学校は2015年に廃校になっています。

 

 

震災遺構 門脇小学校を見学

震災遺構として整備し、2022年にミュージアムとして有償(大人は600円)で一般公開しています。

 

私は、ここを訪れるのは初めてでした。

202503 石巻市 門脇小学校跡

遠くから校舎を見たところ。

写真右側の建物は、展示・事務棟。

 

後背の小高い丘は公園となっており、学校では、日頃からここに避難する訓練を行っていました。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

津波をかぶったのは、おおむね1階程度までだったようですが、前述のように、火災によって3階までが外装はボロボロになっています。窓ガラスは割れたまま。

この樹木は、震災後、若い芽が出てきて育ったものだそうです。

 

入場料を支払って、中に入ります。

202503 石巻市 門脇小学校跡

1階の校長室。

津波+火事の両方により被害を受けています。

3月11日といえば、年度末ですが、作成済みの通知表は金庫の中に保管していて、無事だったそうです。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

廊下。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡

火事で焼けたままの姿。

机とイスは、木の部分は燃え落ち、金属パイプ部分のみが残っています。

 

 

それにしても、よくも被害にあった姿のまま残していたものです。

机やイス、什器のそれぞれを、全く動かすことなく、そのまま保存して、これを見学できるようになっています。

 

 

心情的には、このような姿を目にしたら、片付けたくなるものです。

敢えて片付けたい気持ちを抑えて、後世への教訓とするために、そのまま残したのではないでしょうか。

この学校の校内での人的被害が1名でも出ていたら、やはりそうはいかなかったでしょう。

 

202503 石巻市 門脇小学校跡に展示されている消防団車両

体育館が、展示コーナーとなっています。

牡鹿地区の消防団車両が、津波で流されて大破した姿で展示されています。

 

他にも、体育館内部には、仮設住宅の実物も改築展示されていました。

 

 

石巻南浜津波復興祈念公園

202503 石巻南浜津波復興祈念公園

石巻市内の犠牲者全員の名前を記した慰霊碑がありました。

石巻市内だけでも、3千2百名が死亡しています。(行方不明者を除く)

後ろに見えるのは、石巻市営 門脇西復興住宅です。

 

 

公園の中央部には、みやぎ東日本大震災津波伝承館が建っており、ここは無償で見学することが出来ます。

 

 

伝承館は、いつまでやるのかな?

伝承館、これは必要だと思います。

 

既に大震災の発災から14年が経ちました。今の中学2年生が生まれたときです。今の中学生以下は、リアルタイムに体験していないのです。

 

伝承館の果たすべき役割って、2つあると思うんですよ。

  1. 新しい世代に対して、教訓を伝える。
  2. (遺族の方にとって)自らの家族がその日にどのように被害に遭ったのかという記憶を子孫に伝える。

あと70年くらい経てば、「その時点で生きている世代」全てが、リアルタイムな震災の体験をしていない、ということになります。

語り部もいなくなります。

その時がくれば、引き続き1「教訓を伝える」は必要だとしても、2「記憶を伝える」は、伝承館という形で行う必要はなくなるかもしれませんね。

 

 

博物館・ミュージアムって、維持費が膨大にかかります。かと言って、中途半端な低予算で運営し続けようとすると、様々な展示物は年月が経つにつれてだんだん色褪せて古臭くみえてきて、伝えるべき教訓・記憶までがショボく感じてきてしまうんですよ。

上記の旧 門脇小学校のような、震災遺構も、エレベータを設置したり、外壁の剥離予防の工事を施すなど、開設までに8億5千万円の費用がかかっています。常勤スタッフは何人もいるし、ランニング費用もかかります。

 

 

私のこの考察に対して答えはないのですが、今、私が思い出したのは、桜島の埋没鳥居です。

2005/3 桜島埋没鳥居

2005年3月に訪れた、桜島、黒神の埋没鳥居。

 

大正3年(1914年)の桜島の大噴火の際に埋まった鳥居です。

後に氏子の方々は掘り起こそうとしたそうですが、当時の村長の英断により、そのまま残り、噴火の恐ろしさ、被害の大きさを雄弁に語り続けています。

これはランニング費用ゼロですね。

「教訓を伝える」成果とランニング費用を考えた場合、コスパ抜群の方法と言えます。


2025年3月 東日本大震災被災地巡り 奥松島・野蒜

令和7年(2025年)3月、東日本大震災の被災地である、奥松島・野蒜~石巻~牡鹿半島を再訪しました。

この災害の被災地には、数年おきに訪れ、同じ場所の復興状況/復興していない状況を定点観測しています。

 

野蒜についての過去の記録は、

2012年4月に訪問した時(震災から1年後)
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜

2014年4月に訪問した時(震災から3年後)
東北被災地巡り その2 野蒜

2017年5月(震災から6年後)
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島

 

 

仙石線 旧野蒜駅

2025/03 旧野蒜駅

2階の途中まで津波が入ってきた駅舎は、東松島市 震災復興伝承館としてリニューアルされていました。

2017年時点では、2階のみが資料室となっており、1階にはファミリーマートが入居していましたが、今は全館が津波災害の伝承施設となっています。

展示物の多くは、写真パネルです。

 

観光オフシーズンゆえに、広い駐車場には数台のクルマしか停まっていませんでしたが、時おり家族連れなどのツーリストが訪れて展示資料に見入っていました。

 

2025/03 旧野蒜駅

ホームと線路は、震災遺構として保存されています。

 

2025/03 旧野蒜駅

ホーム上には上がれませんが、周囲を一周できるような歩道が整備されていました。

 

私は、震災から13ヶ月後の2012年4月にここを訪れて、あっちを向いたりこっちを向いたり折れ曲がっている電柱・架線柱、切断され垂れ下がったままの架線、砂で埋もれた構内のレールという生々しい状況を見学しました。あの頃の状況と比べると、きれいに整ってしまって、津波の被害をイメージしにくいことは否めません。

 

(参考)

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2012年4月、野蒜駅ホームの様子。

 

 

2025/03 旧野蒜駅前

旧駅前。

 

 

野蒜海岸

ガキの頃に、親の転勤で仙台に住んでいたことがあり、ここに海水浴に来たことがあります。あまり覚えていませんけど。

 

2025/03 野蒜海岸

護岸工事は完了しています。

 

2025/03 野蒜海岸

静かな海岸。

 

震災・コロナ禍後、2022年には海水浴場として再開したものの、利用者低迷のため、わずか2年で終了したようです。

河北新報の記事の中では、震災の影響というよりも、娯楽が多様化して海水浴離れが進んだため、と分析されています。

 

2025/03 野蒜海岸

かんぽの宿奥松島と、周辺の被災直後の空中写真が、旧野蒜駅の伝承施設に展示してありました。

 

2025/03 野蒜海岸 松の防砂林

松の防砂林が植林されていました。

まだまだ背が低く、防砂林として役に立つようになるのは何年もかかりそうです。

 

震災前には、この後背には人家が立ち並び、中学校もありましたが、今は何もありません。

 

 

 

新 野蒜駅周辺の野蒜ヶ丘 住宅地

JR仙石線は、仙台から石巻まで、海岸沿いを走っていた鉄道路線ですが、大規模に被災しました。

新たにルートを山側に変更して、2015年5月には営業再開しています。
海に近い場所を通る区間では、津波被災時の被害を軽減するために、高架化されているところもあります。

 

2025/03 新 野蒜駅

高台に再建された新 野蒜駅。

 

この新 野蒜駅と、お隣りの新 東名駅は、標高が高い山の中を新たに開拓して、鉄路が敷かれています。

周辺には、同じように山を切り崩し、あるいは逆に盛り土をして、新興住宅団地「野蒜ヶ丘」が開かれています。

 

2017年に訪れたときは、まだ住宅地は半分くらいしか家が建っておらず、あちこちで建築の槌音が響いていました。

2025/03 野蒜ヶ丘の住宅街

今は、空き地もなく、びっちりと家が建ち並んでいます。

後述しますが、人気の住宅街であったとのことです。

 

2025/03 野蒜ヶ丘の住宅街

一見すると首都圏郊外のニュータウンのような印象も受けますが、一軒一軒の家々は、敷地が広く、また、一軒あたりのクルマが2台、3台と駐車してあるのは当たり前である点が、大きく異なります。

 

2025/03 野蒜ヶ丘のカフェ

ちょうどお昼時だったので、google mapで探してカフェに入り、カレーライスをいただきました。

 

お店を一人で切り盛りしている御婦人と話をしました。

・震災前は、野蒜の川沿い(東名運河のことかと思います)に住んでいた。

・やはり野蒜に住み続けたくて、野蒜ヶ丘の住宅地募集に何回も申し込んだ。山を削った土地が人気で、盛り土した土地は地盤が弱いから不人気だった。3回目でようやく抽選に当たった。

・山を削ることによって余った土は、巨大なベルトコンベアを設置して運び出した。
陸前高田のベルトコンベアと同じものですね)

・野蒜ヶ丘の造成が終わり、土地の募集が始まるまでに、震災から8年間がかかった。待つ時間は、体力勝負だった。
(この8年間は、仮設住宅に住んでいたのでしょう。狭くて不自由が多い仮設住宅に8年間も住みつつ待ち続けたのは、さぞ体力も気持ちも削られたことと思います)

・家族や家を失って、野蒜を離れた人もいるが、墓参りに戻ってきたときに、ゆっくり休める場所がない。知っている人の家も、どこにあるか分からない。新しい家だらけで、どこの家のチャイムをピンポーンと押したらいいか分からない。電車待ちの間にコーヒーを飲んで一息ついて、心の整理ができるようにと、カフェを開いた。カフェ営業の経験があったわけではない。


東日本大震災の復興のために高台を削って造った集団移転住宅地の多くが、限界集落に。

本日、令和7年(2025年)3月6日付け読売の記事より。

東日本大震災では、多くの、海辺の小さな漁村集落が被災しました。これらの復興のために、高台の山を削って造成し、小さな集落を丸ごと山の中に集団移転することを目指しました。

今日においては、これらの多くが高齢化、過疎によって、空き家・空き地となってしまっている状況が解説されています。

膨大な復興費が、無駄となってしまったわけで、暗澹たる気持ちになりました。

 

 

県が全額国費による整備を要望すると、国も容認した。対象となった自治体の元幹部は「少しでも負担を求められたら、あれだけの事業はできなかった」と言う。自らの懐が痛まないことが、大規模造成に走らせたことは否めない。遠藤さんは「集落ごとに形態や文化が異なるのを読み切れなかった。住民と話し合う時間も不足していた」と語る。

全額国庫負担だったため、地方自治体の見通しが甘くなってしまった、住民との話し合いも不十分であった、とのことです。

 

見通しが甘かった、話し合いが不十分だった、というのは、本当にひどい言い訳です。

東日本大震災以前から、これらの地域は、高齢化が進み、不可逆的な過疎に苦しんでいたわけで、今日の状況が予測できなかったはずがありません。

 

2017年、表面的に視察して考察しただけの私にすら、今日の状況は容易に想像することが出来ました。

201705_牡鹿半島の新しい住宅街

2017年、牡鹿半島の、高台を削って造成した集団移転住宅地にて。

 

 

今日の状況のようになる将来が容易に予測できたにもかかわらず、自分たちの懐が傷まないから、将来予測に目を背けてモラルハザードを生じさせてしまった、というのが真相だと考えます。

 

あの時は、「被災地のすべてを、震災以前の状態に完全に元通りに復興する!」というのが、国全体の意志であり、反対しづらい雰囲気があったことも事実であります。

 

 

みんなが、今日のひどい状況を予測できていながら、それを防げなかったことは残念であり、教訓を汲み取って今後に活かしていかねばならないと思いました。

 

今後、ますます人口減少、高齢化は進みます。

他方で、温暖化による自然災害の激甚化・頻発化も増しています。

今後は、甚大な災害が発生した際は、これを奇貨として都市インフラのスマートシュリンクを進めていく発想が必要であると改めて感じました。