2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

自民党青年局の被災地巡りツアーは、最後の目的地である中間貯蔵施設へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
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202407 中間貯蔵施設

中間貯蔵工事情報センターという、広報センターにて、まず最初に説明をお聞きする。

 

 

中間貯蔵施設の名称・場所・広さ

環境省が運営しています。

これは、施設の固有名詞です。
一箇所しか存在しません。あちこちに何箇所もあるわけではありません。

中間貯蔵施設の地図

環境省:中間貯蔵施設情報サイトより。

 

福島第一原子力発電所を囲むように、半ドーナツ状の地帯に設けられています。

広さは1,600haで、かなり広大な面積です。

 

 

中間貯蔵施設の目的

除染した土壌、放射性廃棄物を、焼却して減容化(コンパクトにする)して、埋め立てる、一時的な仮置き場です。

 

「中間」は、何に対して中間なのか?というと、あくまでも一時的な仮置き場であり、最終置き場ではない、という、プロセス・スケジュール上、中間であることを示しています。

福島第一原子力発電所からの物理的な距離が、中距離である、という意味ではありません。

 

 

では、最終処分は、いつ、どうするのか?

未定です。

 

中間貯蔵施設の役割については、中間貯蔵・環境安全事業株式会社法という法律に明記されています。

この法律においては、中間貯蔵施設における仮置きは、中間貯蔵プロセスが開始された2015年から30年後の2045年3月までである、と定められています。

国は、2045年3月までに、最終処分する(最終置き場を決定し、運搬を完了する)義務を負っています。

 

しかしながら、現時点では、最終置き場の場所も、運搬プロセス、最終処分方法も決まっていません。

 

2045年というと、今から21年後です。

言わば、次の世代に最終処分を先送りした、という言い方も出来ます。

 

 

青森県むつ市の中間貯蔵施設との違い

むつ市にも中間貯蔵施設という名称の施設があるのすが、これは名前は同じでも、役割は全く異なるものです。

むつ市の中間貯蔵施設は、全国の原子力発電所で発生した使用済み核燃料を、再処理工場での再処理プロセスに回すまでの、一時的な仮置き場です。

 

 

中間貯蔵施設内の写真レポート

バスで見て回りました。

202407 中間貯蔵施設

放射性ガレキでしょうか。

この後、焼却して減容化(コンパクト化)することになるのだと思います。

 

202407 中間貯蔵施設

 

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

敷地は広大なもので、国が土地を買収しています。

取り壊されずに残っている民家もあります。

 

202407 中間貯蔵施設

 

202407 中間貯蔵施設

広大な敷地内には、倒壊したままの建物も多数、放置されています。

 

202407 中間貯蔵施設

敷地内のサンライトおおくま見晴台より、福島第一原子力発電所を望む。

一号機から四号機までがよく見えます。

 

サンライトおおくまは、この場所のすぐ近くに建ってた特養老人ホームの名称です。google mapによると、未だに建物は放置されているようです。

 

202407 中間貯蔵施設

この場所の放射線量は、1.3マイクロSV(シーベルト)毎時でした。

 

202407 中間貯蔵施設

埋立地。

私達が立っている場所です。減容化(コンパクト化)した除染土壌、放射性廃棄物を埋めた後、被爆していない土をかぶせています。

将来の最終処分のプロセスにおいては、これらを掘り起こして、最終処分場に運搬することになります。

 

 

202407 中間貯蔵施設

202407 中間貯蔵施設

この地点の放射線量は、0.296マイクロSV(シーベルト)毎時でした。

 

この被災地視察シリーズは、以上です。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所

自民党青年局の被災地巡りの最終日は、廃炉作業が進む東京電力 福島第一原子力発電所へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

個人で申請して中に入れる場所ではないので、個人的には、最も楽しみにしていた訪問地がここでした。

 

 

富岡町~大熊町の様子

以下は、国道6号沿い、バスから眺めた街の様子です。

202407 富岡町~大熊町

帰還困難区域においては、建物の解体作業が順次進められています。

写真奥の家は、ツタが屋根の上にまで伸びて家に覆いかぶさるように成長しています。

 

202407 富岡町~大熊町

ケーズデンキ双葉富岡店

2011/3/11直後の新規オープン予定だったとのことで、一度も営業したことがない店舗です。

一応、取り壊しは行わず、草刈りなどのメンテナンスはしているようです。

 

 

地図と照らし合わせてみると、ここは、特定復興再生拠点区域です。

当初、帰還困難区域として指定されたものの、政策的に除染やインフラ整備などを集中的に進めた結果、住民の帰還・居住が可能になったエリアです。

 

政策的に選択され除染した地域であり、元々の放射線量が少なかった地域ということではありません。

富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村の6町村のうち、それぞれの町村の中心エリアが、特定復興再生拠点区域に選択されています。

 

202407 富岡町~大熊町

建物は取り壊され、塀のみが残っています。

 

202407 富岡町~大熊町

パチンコ屋。

 

202407 富岡町~大熊町

ここは一面の水田だったとのことですが、今は、草が生えたままの荒れ地となっています。

 

202407 富岡町~大熊町

特定復興再生拠点区域では、人が住み始めています。

震災後に建てられた新しいアパートかな?

 

 

福島第一原子力発電所で働く人たち

廃炉作業に従事する、東京電力及び関係会社のスタッフの皆様に感謝申し上げます。

 

現在、東京電力の社員1,000人、関係会社3,000人、合計4,000人のスタッフが廃炉作業を行っています。

 

後述のように、まだこれから廃炉完了まで、20-30年もかかる作業です。

今は、2011年事故を自ら体験し、事故を起こしたことに対して責任を感じている世代が作業に従事していますが、やがて、いつかは引退します。

いずれ、2011年事故を経験しなかった世代だけが、廃炉作業の指揮を執ることになります。

そうなった近い将来において、

・廃炉作業に従事するスタッフのモチベーションを如何にして確保するか。

・優秀な人材を如何にして確保するか。

が重要な課題になると思いました。

 

余談ですが、私の小中学生時代の友人で、東工大から東京電力に入った人がおります。事故後に福島第一原発に転勤したものの、メンタル的に耐えられなくて配置転換を願い出た、という話を聞きました。

「会社が命じる人事に異を唱えることが、自分のキャリアにどういう意味をもたらすかは重々承知の上だが、どうしても耐えられなかった」
と言っていました。

 

 

福島第一原子力発電所の廃炉のスケジュール

公表されている廃炉ロードマップは、大雑把なものですが、これは、研究し試行錯誤しながら進めていく作業であるため、明確なスケジュールを設定できないためです。

上記webサイト内では、

第2期 燃料デブリ取り出しが開始されるまで ~2021年12月

となっていますが、実際には、2024年7月現在、燃料デブリ取り出しはまだ始まっていません。これから試験的な取り出し作業が始まるところです。

 

燃料デブリとは、核燃料、制御棒、その他の設備類などが溶融して、冷えて固まったものです。形はバラバラだし、放射線量も高いので、取り出す作業は極めて困難です。

 

尚、チェルノブイリでは、燃料デブリの取り出しは、行いませんでした。

コンクリート製の壁で覆い尽くして封じ込める、という手段を取りました。
(つまり、根本的な解決ではない、と言える)

 

スリーマイル島では、炉心溶融したものの、燃料デブリは取り出しやすい規模・形状だったようで、事故から十数年程度で燃料デブリ取り出し作業が完了しております。

 

 

福島第一原子力発電所の施設内へ入る

施設内は一切写真撮影禁止です。

以下の写真は、全て、私が撮影したものではなく、自民党青年局視察団の事務局が公式に撮影したものです。

 

 

原子力施設のため、セキュリティは極めて厳重です。
事故を起こしたから、廃炉作業を行っているからという理由ではなく、原子力施設とはそもそもセキュリティは厳しいものです。

IAEAによる査察は、大規模なものは年に2回の頻度で受けているとのことでした。

 

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機。

水素爆発が起こりました。

 

202407 福島第一原子力発電所

1号機は、建屋の壁は壊れ、鉄骨もひしゃげています。

 

202407 福島第一原子力発電所

右下に固まっているのは、ガレキです。

ガレキを撤去せずに放置したままとしている理由は、ガレキを撤去しようとすると、放射性ダストが飛散するからです。

 

今後、全体をすっぽり覆い尽くすカバー建屋を設け、飛散防止をした上で作業を進めていくことになります。

 

202407 福島第一原子力発電所

左が2号機。
2号機は水素爆発に至りませんでしたので、壁が原型をとどめています。水色地に不規則な点々の模様が入っているのは、オリジナルのデザインです。

中央の、円筒形の物体が載っているのが、3号機。

その右が4号機。

 

202407 福島第一原子力発電所

2号機と3号機の前で記念撮影。

 

原子炉建屋から80mの位置に見学台が設けられており、防護服無しでここまで行くことが出来ます。

 

全員が、個人線量計を装着しています。

男性は、貸与されたベストの胸ポケットに収納します。
女性は、お腹あたりのポケットに収納します。

これらの性別は、自認しているジェンダーではなく、生物学的ジェンダーを指します。
女性の場合は、子宮が最も被爆の影響を受けやすいから、というのが理由とのことです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この位置での放射線量は、59.2マイクロSV(シーベルト)毎時でした。
1時間ここにいるとどのくらい被爆するかを示す数値です。

1m(ミリ)=1,000μ(マイクロ)ですので、0.0592ミリSV毎時と同じです。

 

 

ツアーが終わって本部棟に戻った時、私が装着していた個人線量計が示した被ばく量は、

・ガンマ線 0.01 ミリSV
・ベータ線 0.0 ミリSV(検出せず)

でした。

これは、ツアーの時間内に私が被爆した累積値を示します。

この数字は、おおむね、歯のレントゲン撮影1回分の被曝量です。
尚、胸部レントゲン撮影の場合は、もっと被曝量は大きく、1回当たり0.05~0.1ミリSVくらいです。

 

 

処理水のタンク

202407 福島第一原子力発電所

202407 福島第一原子力発電所

処理水のタンクの形状・色は、様々なものがあります。

メーカ純正仕様をそのまま使っているためであって、形状・色の違いによって使い方が異なるわけではない、とのことです。

 

 

ALPS処理水

ALPS処理とは、プロセスの名称です。

 

ALPS処理プロセスに投入する前の「汚染水」は、パイプの赤錆が混ざっているため赤茶けた色なのだそうです。

これを、ALPS処理を通すことによって、トリチウム以外の放射性物質を、適切な基準値以下に除去したものが、いわゆる「ALPS処理水」です。

トリチウムだけは除去する方法がないために、残ってしまうわけですね。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水。

なお、取り除いた、トリチウム以外の放射性物質については、最終的に処分する方法は未定とのことでした。

 

202407 福島第一原子力発電所

ALPS処理水を沖合いに放出するための配管は、このようなドリルで海底の地盤を掘削してトンネルを通しました。

ただパイプを海底に置くだけ、という方法もあり得ましたが、長期的に安定した作業が行えるようにと、トンネルを掘ったそうです。

 

202407 福島第一原子力発電所

この沖合いから、ALPS処理水を海洋放出しています。

 

202407 福島第一原子力発電所

質問する私。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
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東北被災地巡り その7 釜石
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東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
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2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク

自民党青年局の被災地巡りツアーは、自民党宮城県連のアレンジにより、県立多賀城高校へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
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2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

この高校には、大震災を契機に、災害対策の人材を養成するための災害科学科という学科が設けられています。

「災害対策の人材」といっても、パッと思いつく進路は、消防士、自衛官、公務員、といったところですが、卒業後の進路は、進学する生徒が多いようです。

そもそも「災害科学」という学問領域が確立されているわけでもなく、高校レベルで災害科学教育といっても、教える側も試行錯誤といったところなのではないかと思います。在校生の皆様におかれましては、将来再び起こり得る災害にの被害を軽減するべく有為な人材となられることを期待します。

 

 

グループワーク

夏休みにも関わらず多くの生徒が学校に集まってくれました。
7,8人のグループに分かれてグループワークを行いました。

なかなか面白い試みであります。

 

一般的には、初等教育・中等教育の教育機関、特に公立の学校は、政党のイベントに参加したり、政党とタイアップした企画を行うことには、基本的には及び腰であるものです。

私達、自民党青年局とのタイアップしてのグループワークの機会を設けてくださった多賀城高校の先生方、生徒さんたちには感謝申し上げます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループワークの様子。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

グループごとのディスカッションの成果物を発表しているところ。
(フルモザイク化したので、この写真では何が何だか分かりませんね)

左端の青いビブを着ているのが私です。

 

 

グループごとに、

高校生が、
・防災に関して現状の課題を一つ
・その課題に対する、自分なりの解決策のタタキ台案

を提示し、タタキ台を皆でもみもみ話し合ってブラッシュアップし、発表する、というものでした。

 

私達のグループでは、冒頭、高校生の一人より、

・課題:災害の伝承が、うまく行われていない
・解決策のタタキ台案:国が伝承館を造って運営する

と提示し、これを元にディスカッションを行いました。

 

「おっと!いきなり、国にやってくれ!って国頼みかよ!」

と私は驚愕してしまいました。

 

 

「伝承がうまくいっていない」これは分かります。

年月が経つにつれて、記憶も危機感も薄れていくのは、世の常です。

だからこそ、何とかしなくてはならない、危機感を醸成し、教訓を継承していかなくてはならない、という課題認識は、どこの地方自治体・地方議会でも共通して抱えているものです。

件の高校生は、「現状うまくいっていないのだから、国がやればいい!」とシンプルに考えてしまったようです。

 

「自助 – 共助 – 公助」のうち、公助を当てにしてはいけない、行政は頼りにならないし、頼ってはいけない、自分たちのことは自分たちで何とかするしか無い、あなたの家族を守れるのはあなただけなのだ、というのが、日頃、私が蕨市内の防災系のイベントなどでスピーチする機会がある度に口を酸っぱくして言っている話です。

今回の自民党青年局のツアーで訪れた一連の被災地、伝承館の類でも、最もぐっと胸に迫る思いがしたのは、家族や仲間を失いつつ、かろうじて生き残った被災体験者の方の生の体験談でした。お金をかけて作ったムービーや展示物ではありませんでした。

国がお金をかけて大々的なハコモノを作って運営するよりも、その土地の人達が頑張って、自分たちで考えて、生の体験談を話し聞かせる機会をたくさん作った方がいい、というのが、参加した地方議員の概ね共通の感覚なのですが、高校生たちとは根本的にずれているようでした。

 

私は、国に頼ってはダメだ、その土地の地元の人達が自分たちで頑張るしかないんだ、と強く話をしたのですが、高校生たちにどの程度伝わったか、ちょっと心もとなく感じます。

 

202407 多賀城高校災害化学科の生徒たちとグループワーク

最後に皆で記念撮影。

いやはや、高校生の生の感覚を知ることが出来たのは、とても有意義でありました。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

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2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

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台湾の支援によって再建された南三陸病院

202407 南三陸病院

南三陸町の南三陸病院(90床)の建物。

右側で青色のビブを着て、眩しそうに手庇をかざしているのが私ですね。

 

この病院は、津波に被災した公立 志津川病院の後継です。

公立志津川病院2012年4月の公立志津川病院(122床)。

5階建ての建物は、4階まで津波に襲われ、多くの医療職、入院患者がお亡くなりになりました。

 

202407 南三陸病院

公立志津川病院は、台湾赤十字から支援をいただき、南三陸病院として再建されました。

同志国である台湾の方々の支援への感謝の記念碑が建てられています。

 

202407 南三陸病院

南三陸町長からお話を伺う。

 

202407 南三陸病院

石碑を囲んでみんなで記念撮影。

 

 

南三陸の伝承館 南三陸311メモリアル

202407 南三陸311メモリアル

元 南三陸町の行政パーソンだった館長からご説明いただきました。

 

202407 南三陸311メモリアル

マニュアル通り、訓練通りに行動すれば、人は正常化バイアスによって安心する。

でも、それはただの安心に過ぎない。安全であることは示していない。

東日本大震災では、想定を越えた被害が発生した。
マニュアル通り、訓練通りでは助からなかった。

その場の状況に応じた臨機応変な対応が必要だった。

安心と安全は違うんだ!

 

というご説明は、確かに納得できるものでした。

 

南三陸311メモリアルのラーニング・プログラム

動画を見た後、あなたなら選択肢Aか選択肢Bか、どう行動しますか?
周りの人とディスカッションしてみましょう!

という参加型コンテンツがあります。

 

例えば、

「あなたは、落ち着いて行動して高台の安全な場所に避難することが出来ました。しかし、スマホを自宅に置いてきてしまったことに気が付きました。さあ、取りに帰りますか?諦めますか?」

といった具合いです。

どちらが正解かは、誰でも分かります。

でも、正解通りに、あなたは行動出来ますか?

ついつい、ささっと行って帰ってくれば大丈夫だろう!避難生活がどのくらい長期化するか分からないから、スマホは大事だしね!と考えてしまうのではないですか?

スマホを取りに帰るか、スマホを諦めて安全な場所に留まるかを選択してそれぞれを示すカードを掲げた後、周りの人と話し合ってみよう。

と、いうものです。

 

 

これはよく出来た素晴らしいプログラムです。

若い方々に受講してもらいたいですね。

 

 

震災遺構 南三陸町の旧防災庁舎

202407 震災遺構 南三陸町 旧防災庁舎

3階建ての南三陸町防災庁舎は、屋上まで津波をかぶりました。

この庁舎の中と、屋上で、多くの町職員が被災し、お亡くなりになっています。

 

 

どこの震災遺構も事情は同じなのですが、後世の子孫に対する警告として保存して残すべきだという意見と、家族・友人が亡くなった辛い記憶の場所だから解体して欲しいという遺族の意見とが折り合えるはずもなく、激論になっています。

この防災庁舎も、解体するか、震災遺構として残すか、南三陸町の方針は二転三転しましたが、最終的には残すことになりました。

 

今は、周囲はきれいな公園として整備されています。

 

 

南三陸町の沿岸部

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

志津川港。

 

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

港の周辺の街区。

 

道路はきれいにまっすぐに築造されています。

しかし、空き地が多く、雑草が生い茂っています。

 

202407 南三陸町 志津川港と沿岸部

飲食店、海産物の工場、小売店、コンビニなどが戻ってきましたが、せっかくきれいに整備した新しい区画整理した町並みは、未だに空き地が目立ちます。

 

これは、復興したと言えるのだろうか?

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(2)野蒜
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(3)石巻
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(4)牡鹿半島
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(5)女川原発
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(7)南三陸
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

東北被災地巡り その1 仙台荒浜
東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校

自民党青年局の被災地巡りツアーは、翌日、石巻市の旧 大川小学校へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

犠牲者に献花して黙祷を捧げました

この小学校では、当時の児童78人中、70名が死亡、4名が行方不明という、大惨事が出来しました。

被災を免れた4人の児童は、保護者がやって来て強引に連れ帰って避難したために助かりました。

地震発生後、津波がやってくるまでに高台に逃げる十分な時間はあったのですが、それを行わなかったことによる人災、という側面があります。

尚、学校の教職員11人のうち、10人の方もお亡くなりになっています。
(生き残った1人の方は、心を病んでしまったとのことです)

 

202407 震災遺構 大川小学校

献花して黙祷を捧げました。

2列目の青いビブを着ているのが私ですね。

 

202407 震災遺構 大川小学校

斎藤正美 石巻市長よりお話を伺う。

 

202407 震災遺構 大川小学校

大川小学校の全景。

モダンな平屋建ての建物でした。

 

202407 震災遺構 大川小学校

震災遺構として整備されて保存されています。

 

202407 震災遺構 大川小学校

教室。

 

202407 震災遺構 大川小学校

卒業制作の壁画が残っています。

 

202407 震災遺構 大川小学校

名古屋から来た学生たちが鎮魂の植樹をしていました。

 

 

なぜ、高台に避難しなかったのか?

被災児童の遺族が、「なぜ、高台に避難しなかったのか?」真相を明らかにすることを求めて石巻市と宮城県を相手に血みどろの民事訴訟を起こしています。

最高裁まで争い、2019年、学校側の過失が認定された上で、損害賠償が市と県に命じられ、原告側の勝訴が確定しています。

 

 

震災遺構、伝承館は、石巻市の学芸員の方が思いを込めてデザインしたそうです。

この学芸員の方に、「裁判が終わり、遺族の方々の心の中のわだかまりは溶けたのですか?」と訪ねてみました。

言い淀んでおられましたが、回答は否でした。
行政パーソンとしては、ここまでが話せる限界です。

たまたまそばにいた市長が、高台に避難しなかった理由の真相を語ってくれました。

裁判では語られなかった、表には出せない歴史であり、私も、ここに書くことは出来ません。

しかしながら、後世へ残すべき教訓として、30年後くらいに何らかの形で発表してほしいと思います。

 

202407 震災遺構 大川小学校

校庭と裏山。

 

202407 震災遺構 大川小学校

敷地内に建つ伝承館にて。

津波の時に止まった掛け時計。

 

202407 震災遺構 大川小学校

橋の右岸のたもとに大川小学校があります。

周囲は人家が密集していました。

今は、人家は一軒もありません。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

2012年4月 私費で個人視察

2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
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2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(8)気仙沼~陸前高田
2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(9)釜石

 

2012年7月 私費で個人視察

福島第一の近くに行ってみました。

 

2014年4月 私費で個人視察

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東北被災地巡り その2 野蒜
東北被災地巡り その3 石巻
東北被災地巡り その4 牡鹿半島
東北被災地巡り その5 女川~北上
東北被災地巡り その6 南三陸~気仙沼~陸前高田
東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

陸前高田視察レポート

 

2017年5月 私費で個人視察

2017年 東北被災地巡り(1) 仙台 荒浜
2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
2017年 東北被災地巡り(3) 石巻
2017年 東北被災地巡り(4) 牡鹿半島
2017年 東北被災地巡り(5) 雄勝~河北~南三陸
2017年 東北被災地巡り(6) 気仙沼~陸前高田
2017年 東北被災地巡り(7) 釜石~大槌
2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田

自民党青年局の被災地ツアー、田老から南下して陸前高田へ。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田 ←この記事
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
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2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

陸前高田も、津波で街が丸ごと流されました。

 

 

陸前高田の伝承館

202407 陸前高田伝承館

いわてTSUNAMIメモリアルという名称の伝承館が出来ていました。

なかなか見ごたえがあります。

 

 

202407 陸前高田伝承館

歩道橋の橋桁。

 

202407 陸前高田伝承館

田野畑村の消防団のピックアップトラック。

この伝承館は、陸前高田の地元の被害のみならず、東日本大震災の全体を後世に伝えることを目指しています。

 

202407 陸前高田伝承館

伝承館を出て、防潮堤に登ってみました。

防砂林の松が育ってきていました。

 

202407 陸前高田伝承館

防潮堤の上から、伝承館を振り返る。

 

写真中央の横長の白い建物が、伝承館。
右側の三角形の建物は、震災遺構の旧 道の駅高田松原タビック45。

 

 

盛り土して区画整理した街が、田んぼになってる!?

202407 陸前高田伝承館

伝承館から、北向きに街側(山側)を望む。

陸前高田で、最もびっくりしたのは、この景色でした。

 

2014年時点で、、山を削って土を運び入れ、盛り土をするための巨大なベルトコンベア設備が街中に張り巡らされ、あたかも空中都市といった趣でした。

 

2017年時点では、盛り土作業は完了し、ベルトコンベア設備も撤去済みでした。

ああ、これからここに人家が建てられていき、人々が暮らし始めるのだろうな、と思ったものです。

 

しかしながら、2024年時点では、人家はまったく建っておらず、一面が水田となっています。

 

今調べたところ、これは別に人家が戻ってこなかったので仕方なく水田にしたということではなく、当初の復興計画通りだったとのことです。

膨大なお金をかけて、盛り土をした結果として水田を作ったというのは、率直に言って、その盛り土は必要だったのだろうか?と、不思議な感じがします。

 

陸前高田は、「奇跡の一本松」という分かりやすい物語があったために、ふるさと納税などの支援金が集まりやすく、そのために復興事業が他の街よりも早く進んだ、という経緯がありました。

しかしながら、人は戻ってきていません。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

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2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(1)仙台 貞山堀付近
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東北被災地巡り その7 釜石
東北被災地巡り その8 大槌町
東北被災地巡り その9 山元町~南相馬市 フクイチ近く

 

2014年7月 蕨市議会の政務活動費で、当時の蕨市議会保守系会派での視察

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2017年 東北被災地巡り(2) 奥松島
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2017年 東北被災地巡り(8) 山元町~フクイチ

 

2023年11月 県議会の政務活動費で個人視察

東日本大震災の被災地:名取市閖上を訪問


2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老

先日、令和6年(2024年)7月29-31日、自民党青年局の企画で、東日本大震災の被災地を巡るツアーに参加してきました。

私も先々月、とうとう50代に突入しましたが、当選時点で50歳未満というのが入会資格なので、まだ青年局に属しています。つまり、52歳まで青年局員ということになるわけですが、高齢化日本を象徴しているような感じで個人的にはあまり愉快ではないですね。

行き先は、岩手県から宮城県、福島県へと被災地を南下しました。廃炉作業が進む福島第一原子力発電所の中にまで入れる、という極めてレアな機会なので参加しました。

尚、このツアーの一切の費用は、自民党から出ております。
なぜか参加者に対して日当まで支給されております。

 

 

東日本大震災は、多くの日本人の人生観を変えました。

私の友人にもその類がたくさんおります。

震災を契機に政治の道を志した人もたくさんおりますし、私のその一人です。

 

 

東日本大震災の被災地には、数年おきに訪れて定点観測しています。

復興が進む様子も、逆に、復興が進まない様子も、年月を置いて定点観測することによって、見えてまいります。

 

以下に、7つの記事に分けて、視察ツアーのレポートを致します。

2024年7月 東日本大震災被災地巡り(1) 田老
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(2) 陸前高田
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(3) 大川小学校
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(4) 南三陸病院・伝承館・旧防災庁舎
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(5) 多賀城高校災害科学科の生徒とのグループワーク
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(6) 福島第一原子力発電所
2024年7月 東日本大震災被災地巡り(7) 中間貯蔵施設

 

 

田老へ

田老は、平成の大合併で宮古市に吸収合併されるまでは、田老町という町でした。

訪れたのは、その中心部です。

漁港を中心に、狭い陸地に人家が広がっていました。

震災・津波直後の田老の様子は、こちらの日経のサイト内に写真レポートが掲載されています。

 

 

震災遺構 たろう観光ホテル

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

基礎が頑丈だっため、地震には耐えたものの、津波に被災したこの建物は、2階までは壁も部屋の中身も丸ごとなくなっています。

3階は窓ガラスがありませんので、津波は3階まで押し寄せてきたようです。

 

 

震災遺構として整備され、公開されています。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

建物の横から。

左側の建屋は、エレベータ棟です。
震災遺構として公開するに当たり、新たに設置されたものです。

最右の、青い自民党青年局ビブを一人だけ着ているのが、私です。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

1階の鉄骨。

エレベータ室の骨組みはひしゃげてしまっていますが、建物全体の骨組みは頑丈でした。

 

青いビブの背中が、私です。

 

 

自ら被災した語り部の方のお話

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

自ら被災した地元の方が、語り部となって体験を話してくれました。

まだ行方不明のままのご家族がいるそうです。

 

この部屋は、↑一番上の写真における、右上の5階の、ホテルの客室です。

津波襲来当時、ホテルはまだチェックインタイムが始まっておらず、ホテルオーナーがこの部屋で津波の様子を動画撮影していました。

その動画をこの部屋で見る、という生々しい趣向です。
(この動画は、あまりにも生々しいために広く公開されておらず、ここでしか見ることが出来ません。)

 

 

津波てんでんこ

田老の街の人たちの、津波がやってくる時の合言葉です。

 

津波がやってくる時は、みんな、てんでばらばらに高台に避難するんだ!という意味です。

 

蕨市においては、町会ごとの避難訓練でも、総合防災演習でも、町会の班ごと、あるいは町会ごとに集まった後に避難場所に移動する、という手法が取られています。

歴史上、何度も津波に被災し、多くの死者を出してきた田老では、それではダメだ、各自それぞれ一刻も早く急いで逃げろ!と、子々孫々に伝えています。

 

「津波てんでんこ」は、自分の命は自分で守れ、という防災教育です。

「自助・共助・公助」というフレーズがありますが、「津波てんでんこ」という言葉が示すのは「自助」だけです。

 

私は、小中学生時代の一部を仙台で過ごしましたが、仙台の小中学校でもこの言葉を教えていた記憶があります。

 

 

田老の街の人々の、防潮堤についての考え方

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

部屋の窓から。

かつては沿岸部には漁師の方々の家々が立ち並んでいたようですが、今は誰も住んでいません。

 

歴史上、何度も津波に被災している田老の防潮堤は、2011年の東日本大震災当時、10mの高さがありました。

それでも津波の高さは16mもあり、当時の防潮堤を越え、街は壊滅しました。

 

大震災の後、防潮堤を造り直すに当たり、

・とにかく高い防潮堤を造るか
・防潮堤の高さは抑えて、海が見えるようにするか

これは、街の住民の考え方次第です。

その後、実際にどのような復興施策を行うか、街によって防潮堤の高さは全く異なります。

 

田老においては、「とにかく高い防潮堤を造り直す」という方針を決めました。

 

↑上記写真は、既に完成した新しい防潮堤です。

高さは、14.7mもあります。

おおむね、5階建てのビルに相当する高さです。

 

街からは、まったく海が見えません。
(上記写真においては海が見えますが、5階の高さから撮った写真だからです。地上からはまったく見えません。)

息苦しい、閉じ込められたようだ、という意見もあるようですが、それでもなお、これが田老の街の人々の選択でした。

 

語り部の方は、

「防潮堤は、津波がやってきて、遺体が流出するのを防ぐ役割も果たす」

とおっしゃっていました。

この14.7mの防潮堤があってもなお、これを越えてくる津波が再びやってきて、少なからぬ死者が発生することも覚悟しています。それでもなお、家族には遺体となったとしても戻ってきて欲しいという願いを守ってくれるのが防潮堤の役割だ、という考えです。

自ら被災し、未だにご家族が行方不明のままという語り部の方の生々しいお話は、ただただ黙って聞くしかありませんでした。

 

 

沿岸部の被災した家々の人たちは、新たに高台に切り拓いた住宅街に移り住んでいます。他方で、元からある程度の標高の場所に住んでいた人たちは、家が津波に飲み込まれることはありませんでした。

この違いは大きく、田老の街の住民の中で、未だに意識の分断があるそうです。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

たろう観光ホテルの5階より。

 

202407 震災遺構 たろう観光ホテル

視察団全員で記念撮影。

 

 

過去の東日本大震災被災地視察のレポート

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2012年4月 津波の被災地に行ってきた。(6)女川~北上
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